6/12//2005 吉備雑感日記  
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何をてがかりに?

価値観の多様化と言われて久しい。この国、身の回りを見渡せば、そこここであたかも何でもありの状況のように見える。たしかに自由の獲得、個々それぞれを認めることは尊いと思う。経済的な発展、社会の豊かさによって獲得した一つの姿には違いない。

行き着くところまで行き着いたとも思える昨今、それぞれを認めるとはいっても、単なるわがままかってのしほうだいだけでは、ほころびも出てくる。ともすると無視できないような困った側面にだれしも否応なく遭遇するようになったのではと思うのだがさていかがだろう。

たとえば学校、地域社会、人が集まり何かを決めねばならない場合など。もっといえば?環境問題、富をもった国、国民のみが今後もずっと?無制限にエネルギーを使うことが許されるのか?また、現在、経済発展の真っ最中といった国に対してたとえ正しいことにしろ、何らかの一方的な制限をすでにそのプロセスを経過した国がそうではない国に対して一方的に加えることもどこか都合よすぎる論理のようにも思う。


このホームページで扱うには、ちょっと話が大きくなりすぎたか・・^^;。

かって絵画というものが社会の中で意味を持ち発展する過程を学んだが、それはまさしく今日のメディアをめぐる話と同じだったのだとあらためて思う。
 
いろいろな現象、社会的な側面を客観的に見渡すことも可能になってきたとも思える今日この頃、すでに時代は、価値観の再構築に向かって動き出しているように思う。たとえば、環境に関する話のように。

多様な価値観を認めつつもどこかでそれらをすりあわせ何らかの新しいルールをどのように作り出していくか?が、今、求められているように思うのだ。

・・・・そこで、バラバラに離れてしまったと思われる価値観をすりあわせるときに<何をてがかりに>という話になるのだけれど・・・・。

 

襖絵、制作中画像
■ 襖絵、制作中画像
 

■ 関わっている日本画(もしくは、そう呼ばれるもの・・・あーめんどくさい。)について、私なりの位置づけをすでにこのサイトでも書いたことがある。<この国の自然と人間の関係の作り方を伝統としてとらえたい>としたように思うが、いかがだろう。

それは、具体的に扱うテーマしかり、使う材料しかり、技法しかり、基準点としてあるのは、やはり、この国の豊かな自然のありようのように思う。この自然があったからこそはぐくまれてきた価値観の存在。

狭い日本とはいえど、いろいろな地域、自然環境の違いももちろんあり、一概にひとまとめにできないことは重々承知している。そんな中、共通の価値観をもう一度導き出していくためのもとになるものとして、この長い時間をかけて育て守られてきたつきあい方をてがかりにできないか?と思っているのだ。

たしかに狭い範囲のことにしか通用しない考え方かもしれない。

しかし、「自然」とよい関係をつくらなければ人間生きていけないことも周知のことになってきていると思うのだ。自然、それは自由にならないものであり、脳化する町の対局にいつもあるものだと思うから。

・・・と、このように書くのも、このように捉え、考えることによって<日本画>と呼ばれる価値観生成の仕組みが今日的な問題に対しての何らかの提案となりうるのではないか!とかねがね思っているからなのです。(まさしくこのサイトテーマの ?+art=!となるわけです・・・)

 


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