我々について
ここに引っ越ししてきてすぐに
野良猫がお隣の屋根裏で生んだ2匹の子猫を(デモとリー)
我が家で育てて面倒をみていました。
それと平行して
我々の念願だったセントバーナード犬とペルシャの猫を購入しました。
彼らと同居することは、長年の我々の夢でした。
ドッグショーにも幼犬で出る初体験ができて、
成績はともかく、とても良い思い出になりました。
セントバーナード犬の「姫」
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(Hime 1987〜1997)
生まれた子犬を踏みつぶさないために、4帖の出産部屋を庭先に作ったほど
我々は、一度だけ彼女の子犬を見たかった。
けれども、セントバーナードは一度の出産で平均8匹くらい生むために、
子犬の行き先を心配しはじめました。
日本のほとんどの家庭が、彼女のようなセントバーナード犬を飼うのは
なかなか難しいと知った私たちは、生ませることを断念しました。
夫と姫と次男
我が家は男ばかりの家族構成なので、彼女が唯一の女の子で「姫」でした。
姫の繁殖は断念しましたが、
同時進行で、ペルシャとヒマラヤンの猫の繁殖を始めることになり、
猫での繁殖が始まりました。
彼らは、人間がつくりあげてきた美しい猫です。
(写真アルバムでは、我が家のつたないペルシャとヒマラヤン、そして犬達をここで見ることができます)
そんな中、1990年に、
私は、木の側面に立っている猫の写真を見た時、一目惚れをしました。
「自然にいながら最も自然が似合う美しい猫」だと思いました。
(その本は「世界の猫図鑑」です。グロリア・スティーブンス著、カメラマンはあの山崎哲さんです)
その図鑑の写真でノルウェージャンという猫に魅了され、
さらに名前も書かれていない猫に恋いこがれた日本人が何人いたことか、、
私もその一人でした。
私はそれからノルウェージャンフォレストキャットの虜になりました。
(その写真の猫は Nissekatt's Beyla of MarchGras です)
私が本でその猫を見た後、私は NFC について知りたくて、いろいろ多くの本を探しました。
なぜなら彼女の名前がその本に記載されてなかったから、彼女の名前さえ知ることができませんでした。
同じころその写真の猫を見た男性が、アメリカに問い合わせて、
日本に最初のノルゥェージャンを輸入したことを、後に聞くことになりました。
当初に輸入した男性は、後に女友人にその猫を譲り、
そして新しい所有者は、彼のためのペアになる女性をアメリカのノルウェージャン協会に要望し、
彼の血統に見合うお嫁さんが、輸入されました。
当時は、まだCFAではノルウェージャンのブリード部門が認められていませんでしたし、
ペルシャでCFAのショーに行っていた私は、TICAについて詳しくなかったために、
あちこちを探していた私は、繁殖しはじめた彼女が広告を出したことで、
子ねこをやっと予約をすることができました。
私は、彼女からコピーされたノルウェージャンの資料の写真を得ました。
そのコピーに日本に最初に輸入された雄猫の祖母の写真がありました。
祖母の名前は「Maineline Skadikatt of Norskau」です。
コピーは「キャットワールドインターナショナル」1989年9月/10月号の本の「Ten years in the U.S.A」のページでした。
私が見た雪の中の「Maineline Skadikatt of Norskau 」が、黒白のコピーだったけれども、大変魅了されました。
私は、雪での彼女の立ち姿が非常に美しいと思いました。
さらに、望みを追い求め彼女に似ている子ねこを待ち続けました。
そんなある日、テレビでノルウェージャンドッグとノルウェージャン猫の番組が放送されました。
いつもみていた番組なので、 何気にみていたら、
犬に続いて、ノルウェーの森林猫の映像がでてきました。
それは、子猫と母猫の映像でした。
私は、瞬間、再びその子供猫に魅せられました。
彼はいたずら好きな少年のようにカメラの前にじっとしていませんでした。
それが室内であったにもかかわらず、彼が非常に美しいと思いました。
しかし、放送が彼らの名前も言わなかったので、私には彼がどこのだれなのか手がかりはありませんでした。
私はその時からノルウェーに行くことが唯一の夢になりました。
1993年、すでに予約して2年が過ぎ去っていました。
生まれる子猫を選択していたわけではないだけに、私が待てなくなってきた頃、
やっと、男の子猫が我々の家にやって来ました。
彼をハッスルボーイ と命名。
TICAのショーに行くようになりました。
その年、彼はCFAでノルウェージャンが認められて最初の日本リージョンNFC1番を獲得しました。
私はアメリカで大好きな1人のブリーダーから若干の猫を輸入しました。
今日の私たちの猫の土台となった猫達です。
その後に、インターネットは世界に広まり、そして見知らぬ世界が、非常に近くになり、
そのお陰で、私は友人と望んでいたノルウェーに行くことができました。
ノルウェーのショー会場で、私は「 Nissekatt's Beyla of MarchGras」の写真を見て驚きました。
すぐさま、私は彼女の名前について尋ねました。
私はここではじめて彼女の名前を知ることができたので、すごく嬉しかったです。
さらに、私はこのショー会場で、日本のテレビで放送された猫のブリーダーに会うことができたのです。
そして同じく、私は子猫の名前を知ることができました。
彼の名前は「 Ollendorffs Edison」でした。
彼は1993年にノルウェーのその年の No.1 猫でした。
私が知りたかった多くのものは、ほとんどノルウェーで明白になりました。
そして、さらに貴重なことに、私はショーに出陳されていた
その頃のノルウェージャンのベースである本物のPan's Polaris(当時13才)に会うことができたのです。
もちろん、長年ノルウェージャンをブリードして広めてきたPanのブリーダー、エルスさんにも会うことができました。
ノルウエーに行ったことは、とても有意義で、いくつかの謎も解けたし、
現地の2月という極寒の気候も体験できたし、
AronとAylaを日本に連れてくることができたことで、
さらに、私を魅惑した猫が沢山増えた、とても素晴らしい国でした。
それらをひっくるめて考えると、
私を魅惑した彼らのような美しい猫達を作ることは、非常に難しいです。
だからこそ、 私を魅惑した多くの自然で美しいノルウェージャンを作り出すことを望んでいるかもれません。
そんな我々にとって、もうノルウェージャンなしの生活は、難しいかもしれません。