ニュートン物理学が通用しない、量子力学の世界

ニールス・ボーアは、研究のためにキャヴェンディッシュ研究所に来ていたデンマークの若い理論 物理学者で、たまたまラザフォードの特別講義を聴いた。原子核の周囲を電子が回っているというラ ザフォードの新しい原子モデルに、ボーアはたちまち心を奪われた。1912年、ボーアは、当時マ ンチェスター大学で仕事をしていたラザフォードを訪れ、四カ月ばかりその地に滞在する手はずを整 えた。そこで新しいデータについてじっくり考えたボーアは、まもなく、原子に関するラザフォード の太陽系モデルについて重大な事実に気がついた。知られている物理法則に従う限り、ラザフォード のモデルは、目を剥くほどの大間違いだということだ。
ボーアは、原子核のまわりを大きな速度で円運動している電子は、そのエネルギーのすべてを瞬時 に電磁波として放出するはすであることに気づいたのだ。あたかも海面に向かって急降下するカモメ のように、1秒の10億分の1の百万分の1の10分の1という非常に短い時間で、電子の軌道から原子 核までの距離はゼロになる。電子はくるくると螺旋を描きながら原子核へ墜落するはずだった。
もしもそうなら、原子、すなわちあらゆる物質は、化学的には死んだも同然で、われわれの知るような物 質世界はありえないことになる。ニュートン物理学にもとづいて マクスウエル が作り上げた精巧な電 磁気学の方程式は、原子にとって壊滅的な事態が起こるはすだと告げていた"ラサフォードの原子モ デルが間違っているか、でなければ神聖にして疑うべからざる古典物理学の法則が間違っているか、 二つにひとつだった。
ボーアは何もかも放り出して、もっとも簡単な原子である水素原子が、なせ潰れてしまわないのか を理解しようとした。水素原子は、正の電荷を持つ原子核のまわりを、一個の電子が軌道運動してい るものと考えることができる。水素の原子核は、正の電荷を持っ陽子と呼はれる粒子1個からできて いる。若きボーアは、粒子は波でもあるという、当時話題になっていた新しい量子論について思索す るうちに、ある突飛な考えにたどり着いた。
彼の考えの筋道は次のようなものだった。原子の内部にある電子は、波のような性質を持たなけれ ばならない。そのため電子がとりうる軌道は、ある種の特殊な条件を満たすものだけに限られる。鐘 がカンカンと打ち鳴らされたり、中国のドラが鳴り響いたりするときには、一番低い基音の上に、い くつもの「倍音」が重なっている。電子の軌道運動は、自然界に見られるそんな波の運動に似ている。
一番低い音である「基音」は、鐘が鳴るときに、われわれの耳が主として受け取る音であり、エネル ギーがもっとも低い音である。電子の運動でいうなら、原子核に一番近い軌道にあるときの波動が、 「基音」に相当する。その最低エネルギー状態の軌道にあるとき、電子はエネルギーを放出すること ができないなぜならその状態は、電子がとりうる運動状態の中で、もっともエネルギーが小さいか 電子がとりうる状態には、これより低いエネルギーのものはない。この特別な軌道のことを、 「基底状態」という。これは量子論の特徴のひとつで、原子が崩壊して完全に消滅せずにいられるの は量子的な波としての運動に支えられているからだ。原子が崩壊しないためには、ありうる限り もっと低いエネルギーの状態、基底状態が存在するはずなのだ。
レオン・レーダーマン 量子物理学の発見「第2章」から引用