○寄稿再録

2010年01月25日

 安田敏朗 『辞書の政治学』
平凡社、2800円+税

平凡社、2800円+税
 ちょっと意表をつかれる書名だが、これまでの辞書が常に要求されてきた「規範性」「権威性」の拠ってきたるところを究明、その本質を明らかにするという内容である。辞書史に関心のある人ならば、「政治」と聞いてまず連想するのは、近代辞書の成立がナショナリズムと密接に結びついていた事実であろう。本書はまず、日本近代の国語辞書成立にあたって、欧米に比肩する「文明国」辞書をつくるという愛国的な編纂動機が存在したことを丹念に立証する。

 このことは大槻文彦の『言海』編纂(高田宏『ことばの海へ』など)によって知られているが、ここではさらに近代的方式による自国語の整備(語彙を網羅し、語釈を歴史的に記述する)をもって文明国の標準ないし条件であるとする観念が、幕末から明治初期にかけての洋学系の知識人から発したこと、およびその淵源が先進国の辞書観念、たとえばジェームズ・マリーらの『オクスフォード英語辞典』やグリム兄弟の『ドイツ語辞典』の基本思想にあったことを、ていねいに立証する。植民地近代の辞書観念を対比させたところには、目配りのよさと徹底性を感じる。

 以上を「文明としての辞書」として括り、続く章で「文化としての辞書」に展開するあたりが本書の独創である。一たび文明として成立した近代辞書ではあるが、それが文化となる鍵は国民の間への普及にある。つまり、国語辞書は編纂動機における強い使命感や啓蒙感覚のゆえに、「一家に一冊」を志向する契機をはらんでいたし、それを助長する国家主義的教育や出版資本の要請も手伝って、常に「権威性」「規範性」を強調する傾向が生じた。その行き着いたところが「国民辞書」といわれる『広辞苑』だ、とする。

 著者は『広辞苑』の編纂方針の「言葉の移り変わりがきちんと反映されていること」「その言葉の変転の中で、拠るべき本来の語義・用法を示している」という基本理念をとりあげ、「記述的立場に目配りしつつも、結局は『規範性が求められる辞典』とする規範規範的立場へと収斂させようとしていることは明白」と批判する。その上で、二〇〇〇年ごろからはじまった『広辞苑』バッシングに一定の距離を保ちつつ、「こうしたことは辞書の権威が失墜すればすむという問題でもない。『広辞苑』のかわりに別の新たな権威が登場するだけである。数多の辞書論は、権威の争奪戦にすぎないともいえる」と相対化するのである。

 続く「実用品としての辞書」という章では、一般の人が辞書をこのような角度から分析するような習慣はなく、単なる実用品の一種に過ぎなかったのではないかとして、日本の辞書普及の不安定なあり方(編纂者たちの意図との大きな落差)が問われる。「辞書を読む」という感覚も、近年になってようやく生じたもので、本書では『新明解国語辞典』の独創的な語釈例があげられているが、周知のように一部の批判によって、いわゆる「新解さん」ファンは息をひそめてしまった。かわって語釈ばかりが厳密な新世代・アカデミズムの辞書が全盛だが、読んで一向面白くないという事実があり、本書の文脈を発展させて読めば、辞書読者の新しい地層を開拓するには限界があるということになろう。とかく辞書の世界には、この種の状況悪がつきまといがちだ。

 道具といえば、学校教育の場などで辞書を身近に利用する指導も怠りがちであった、という見方も賛成である。たしかに学生も企業人も辞書を引く習慣などは原則としてなく、たまに引けば表記の確認にとどまるという風土の中から、文明国には稀な表記だけを羅列した 用字辞典なるものが生まれたのである(これは大きなマーケットらしく、岩波書店ですら出している)。

 このような背景のもと、学習指導要綱では辞書を引くことの 〃習慣づけ〃に狂奔するのだが、現状では愛国心の涵養の中で辞書を引くというイデオロギー性に取り込まれることになる、という指摘は最も重要である。ここにいたって、書名の意図するところがすべて明らかとなり、辞書のもつ複雑な政治性の連環が浮き彫りになる。

全体として刺激的な論考だが、政治性といえば、ハッキリいって現在にいたるも生命力のある辞書のほとんどが、アカデミズム本流から遠いところにいる人の営為によるものであるという事実(だからこそ編纂の苦労話に意味があるのだ)について考えさせられる。いろいろな意味での〃職人〃が現場を担当し、必要があれば頂点の学者が名義だけを貸すという慣習が、あまりにも長く続いてきた。学校・図書館における辞書採用の基準は、いまもって編者の肩書(学校名)ではないだろうか。

 権威性を精算できない辞書のあり方、それを疑うことのない利用者。その深い根っこの部分には、本書で「一般の人」と表現されている、要するに日本人特有の言語意識――国語観にあるのではないか。場当たり的な意識が生み出すことばの歪みや崩壊現象は、何もあやしげな敬語やカタカナ語の氾濫にとろまらない。昨今の不可解な命名にいたって頂点に達し、具体的には人名のみならず、平成大合併時代の蕪雑なる〃新〃地名にもおよんでいる。この種の現象に対し、それこそ実用的なハウツーものや即席辞書が洪水のように市場を席巻するが、すべて一過性のものとしてたちまち消費されてしまう。あれは何だったか? の繰り返しだ。辞書はまさにこの文脈にスッポリと入り込み、電子化はそれを促進するだけだろう。辞書の消費学こそが必要なゆえんである。

 (「論座」2006年5月号寄稿)