○寄稿再録

2010年12月31日

 私の古典 (13) 『方丈記』
岩浪文庫版

岩浪文庫版
『方丈記』の作者鴨長明は六十歳のとき、現在京都市伏見区にある日野の山中に方丈、すなわち四畳半の庵を設けた。木材はかけがねでとめるだけにし、場所が気にいらなければ、すぐよそへ移り住めるようにした。南に竹の簀子を敷き、西に閼伽棚(仏に供える水を置く棚)をつくり、北に阿弥陀如来の絵をかかげ、法華経を置いた。

 生活はむろん質素の極みである。ふとんがわりにわらびの穂先を敷き、木の実やこけもも、山芋、せりなどを常食とした。
 「若(もし)、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿のこゑに袖をうるほす。くさむらの蛍は遠くまきの島のかゞり火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠去かるほどを知る」

 だが、こうした絶対の孤独境とうらはらに、風流閑雅の心境がある。春は藤の花が草庵の周囲に紫の雲のように咲き匂い、夏はホトトギスの声、秋はひぐらしの声が耳を楽しませる。興が向けば、松のひびきにあわせて、琴で秋風楽をかなで、歌を詠じて心のゆくままに時をすごすのであった。

 世を捨てたということは、濁悪(じよくあく)の世を捨てたということであって、逆にいえば人間にふさわしい自由で静謐な生き方への憧れは、ひときわ強いはずなのである。単に浮世のわずらわしさを逃れたいという安易な発想では、このような孤独と日常の不便には耐えきれない。そうではなくて、現実の社会の中で深い失望と人間不信の念を抱いたものが、怒りをバネとしてより広い大きな世界の中にとびこむというのが、真の世捨てであり脱俗であろう。

 京都の鴨神社の神官を父として生れた長明は、出世欲に富んだ俗物である反面、容易に人を許さない理想家肌の人間であった。十八、九歳のころ父が死に、てっきりそのあとがまに坐れると思っていたのが、案に相違して周囲から妨害され、エリート・コースから疎外されてしまう。孤児で偏屈者だからというのが理由だった。

 青春期と働きざかりを独身のまま無為のうちにすごし、四十六歳のとき後鳥羽院にひろわれて和歌所の寄人(よりうど)の末席に加えられ、大喜びしたこともあったが、何度か訪れた神官採用のチャンスはそのたびごとにつぶされ、ついに出家してしまう。
 個人的な理由ばかりではない。彼は生れた早々から保元・平治の乱、平家の盛衰、鎌倉幕府の興隆と老廃といった現象を、つくづく身をもって体験し、世の無常を悟っていたのである。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖(すみか)とまたかくの如し」

 京を数次にわたって襲った大火、饑饉、疫病、大地震。そのたびに彼は死屍累々たる光景と、そのあとにくる安ピカの繁栄、再び災害による破壊のくり返しを目撃させられた。これを救う政治は無きに等しく、おのれの理想を発揮する機会もない。「すべて世の中のありにくく、わが身と栖とのはかなく、あだなるさま、またかくの如し」−かくて脱俗という心境にいたるプロセスは、不安の現代に住むわれわれにも理解されぬことはない。

 二十三枚の証言 風流閑雅といえば、浮世のきずなを断ちきれぬ俗人には憧憬とともに、いい気なものだという感慨も浮ぶ。長明はこれを予期していたのだろう。結びの一段で、悟りの境地を設けながら、ついに悟りきれぬ人間存在の悲しみを綴る。

「そもそも一期(いちご)の月影かたぶきて、余算、山の端に近し。たちまちに三途の闇に向かはんとす」。閑居のたのしみなどは、どうでもよい。仏の教えは、何事にも執着するなかれということでなかったか。自分は外見こそ聖人に似ているが、心は濁りに染まっており、煩悩に狂っているのではなかろうか。このようにわが身に問いかけるのだが、答えは一言もない。やむなく、心ならずもの念仏を二、三べん唱えてやめてしまった・・・・・・。

『方丈記』は、八頭(やまた)の大蛇(おろち)のように、じつにその尾に宝剣をひそめていると、佐藤春夫は評したが、この一段、志を得ずに死期を迎える老人の心境に身を置いて読めば、痛切さがよくわかる。

 自分のようなものでも、生きていたという証しをのこしたい。しょせん徒労の人生であったとしても、たしかにこの世に存在したのだ。建暦二年(一二一二)、深山に春のいぶきがたちこめる旧暦三月の末、彼は粗末な机のまえに坐って、一気に書いた。原稿用紙にしてわずか二十三枚だが、世界の文学にも類例のない“巨編”である。

 京都府船井郡にある大福光寺には、長明自筆の奥書のある巻子本(巻物)が伝わっている。現在は京都国立博物館に寄託されているが、巻子本で、幅二八・一センチ、長さ四メートル九一センチ四ミリ。十一枚の楮紙をつなぎ合わせたものである。奥書に「右一巻者(は)鴨長明自筆也、云々」という寛元二年(一二四四)の添書があるが、学界ではその真偽をめぐって説が分れている。しかし、鎌倉中期をくだらない、最も信頼のおける伝本という点では一致している。カタカナに漢字まじりの暢達な筆致である。

『方丈記』は明治時代から海外にも知られた。夏目漱石と南方熊楠による英訳のおかげである。漱石の訳は彼が二十五歳のときのもので、多少かたいところが目につくが、熊楠の場合は原典の複雑微妙なニュアンスと古雅な味わいを再現した名訳だ。彼はこの訳文に『十二世紀における日本のソロー』という題をつけ、英国の学者ディキンズとの共訳として一九〇五年(明治三十八)に発表したが、のちに南方の名は削られてしまった。しかし、彼はこのことあるを予期して、文中のちょっと目につかぬところに、自分が訳者であることを明記しておいたという。

 それがどの個所であるか、はっきりしないが、彼のイニシャルが入っているとしか考えられない。とすれば、文中に一個所、「松のひびきに秋風楽をたぐへ」の訳文にmelody known・・・・・・というところがあり、M・Kという頭文字をひろうことができる。彼は自分の名をローマ字で綴るのに、日本流の姓・名の順で記した。
 とすれば、いかにも奇人学者らしい挿話ではないか。