○吉備悠久

2015年04月08日

 由加山(倉敷市)
由加山境内

由加山境内
 児島半島の中央部にある由加山は、いま車でお参りする人が多いようだが、一生に一度はお参りを、と願っていた人々の気持ちになって、海側の大鳥居をくぐってみた。周辺は門前町として飲食店やみやげもの店に加えて、かつては旅館なども多かったようで、幕末にこの地を訪れた文人成島柳北(1837〜84)なども「かかる山中にこの繁華郷にあるは誠に意表といふべし」と、おどろきを隠さなかった。

 由加山は南北約八キロの深い山である。いま快適に整備された車道から頂上に近づくにつれ、朱色の献灯の列に向けられ、彼方に蓮台寺の総本殿が見えてきた。左に客殿と拝殿を見つつ、備前焼の大鳥居をくぐれば、そこは由加神社の領域である。めずらしい比翼入母屋づくりの本殿があり、奉納や祈祷受付の標識を通して東方の高台に蓮台寺多宝塔も望まれる。一八四三年(天保一四)の再建の、全国的にも大きな規模のもので、県指定の重要文化財となっている。

 暖かい日ざしの中に、どこからか雅楽の演奏テープが流れ、時折り強い風が吹きつけて、大エノキの葉をそよがせたり、裏の公園に二千本もあるというサクラの花びらを、掃き清められた石畳の上をころがしたりする。境内のいたるところにお守りやおみくじの箱が用意され、厄除開運の文字がおどる。

「由加」は梵語ヨーガの音訳で、「瑜伽」とも記す。修業により、絶対者に合一することで、いわゆるヨガと本質的に同じものである。蓮台寺は寺伝によれば天平年間、名僧行基によって開かれたといわれるが、ほかに備前出身の僧報恩大師による開基とした文献もある。位置も現在とは異なり、谷を隔てた古瑜伽という場所にあったらしい。1682年(天和二)、寺は現在地に移り、千手観音・地蔵・不動明王などの安置のほか、寺領二十石を認められたが、これほど高い寺格を得たのは備前岡山藩主の祈願寺となったためである。

 客殿の奥は急斜面の土地を生かした庭園で、そこに付設された屋根付き階段の手すりには色とりどりの、形もさまざまな願掛け用の千生瓢箪が無数につり下げられ、目を楽しませてくれる。回廊から見える堂宇の甍は、モダンな絵画のような、思いがけない構図と量感を示していた。

 一方の由加神社も天平年間、古瑜伽の谷間に鎮座し、中世は由加大権現と称し、蓮台寺の奉仕を受けた。「大権現」は仏が仮に神となって現れることを意味する。元禄年間に現在地に移った。池田継政が拝殿を寄進、年ごとに奉幣使も派遣された。このように育まれた独自性にいささかの変化が生じたのは、明治に入って岡山県にも神仏分離政策の嵐が吹き、神社が蓮台寺から独立して以後である。当時の政策は日本各地の民俗信仰のあり方に即したものではない。つまり、庶民の立場からのものではなかったのである。

 近世にあって、有力な神社仏閣は物見遊山と密接に結びついてきた。その典型が由加山である。藩主は門前町の繁栄のために、商いや遊興施設に対して別格的な自由を認めた。素朴な信者たちもまた、この地を特別な聖地に見立てて全国から参集、神仏に祈ったり、幸運を願ったり、門前での歓楽をむさぼったりした。つまり、上下をあげて神仏二道の由加山を信奉し、愛したのである。

 こうした由加参りを反映したのが、岡山出身の作家内田百閧ノよる「道連」という、幻想的な短篇である。夕暮れから夜にかけて、遊山に由加山へと急ぐ旅人が、山中で不気味な男と道連れになる。むかし、由加山の僧侶が尼さんとこの山中で逢い引きをしているところに、おそろしい悲劇が起こった、男はそのさい自殺した僧侶の亡霊だったという話である。

 現代とはかけ離れた伝承をモチーフとしているが、案内書には出てこない往時の由加山を想像し、イメージをふくらませるのも一興であろう。

(注)この紀行文は画家森山知己さんとの合著『吉備悠久』(2006年1月刊、山陽新聞社)中の「由加山」を抜粋したものです。森山さんの画作とリンクしましたので、ぜひご覧ください。
→ 森山知己さんホームページ内、「由加山 倉敷市」