○吉備悠久

2015年06月09日

 犬養木堂記念館(岡山市)
犬養毅の旧居

犬養毅の旧居
JR岡山駅から一つ隣の庭瀬駅で下車、静かな町並を北へ2キロほどたどると、白い塀に囲まれた大きな屋敷が目に入る。犬養毅(1855〜1932)の生家で、大庄屋のたたずまいがそのままのこされている。 門を入り、重文指定の母屋を見学してから、西側のなまこ塀や焼板壁に囲まれた中庭を通り抜けたところで、もう一つ、堂々たる蔵風の建物が目に入る。1993年(平成五)10月に建設された「犬養木堂記念館」である。

 鉄筋平屋建約570平方メートル。館内に常設展示室のほか収蔵庫や研究室まで設け、ほとんど理想的なものとなった。総事業費約6億円。ホールに入ると、前面の窓からは南向きに瀬戸内海をイメージしたという枯山水の庭が望まれる。ホールの壁面には1932年、犬養木堂がテロに遭う1ヶ月前、首相官邸前で地元の支持者たち数百人と撮影した記念写真が掲げられている。当時珍しかった横長のパノラマ写真だが、1.5メートルもの長さに目を見張りながら、常設展示室へと向かう。重厚で風格のある展示室内は、木堂の青少年時代から政界入りまでの歩みを追って、明治中期の浮世絵(国会議事堂)、学習用に用いた四書五経、愛読した『万国公法』『圭氏経済学』などの書籍が多数展示されている。

 犬養毅は備中国(岡山県)庭瀬村川入の庄屋、犬飼源左衛門当済の次男に生まれた。先祖は庭瀬藩の郡奉行であったが、父親の代に故あって士籍を奉還している。家には代々次男にすぐれた人物が出るというので、名を仙次郎、字を当毅(まさき)とした。後に木堂は犬飼を犬養、当毅を毅と改めた。読み方は中年のころには「つよき」、晩年には「つよし」と読んでいたという。子ども時代は負けん気で、口の悪さでは定評があった。13歳で父親が病死したため、苦労しながら学問を続け、17歳で小田県庁(現在の笠岡市にあった)に勤務するが、洋学にめざめて上京、湯島の共慣義塾を経て慶應義塾で福沢諭吉に学び、卒業後は新聞記者として西南戦争の弾雨をくぐった。折から政治の季節とあって、筆名で政治小説を書きながら記者生活を続け、経済誌も創刊するが、1882年(明治一五)立憲改進党の結党に参加したのを契機に政界に入っていく。

 展示品の中では書画が目立つ。右上がりの鋭い気迫の書で、年少のころから庭瀬藩の祐筆をはじめ多くの師に学び、研さんを怠らなかった。揮毫の依頼者が多いため、玄関に断りの貼り紙を出したほどだが、反面、書画の揮毫が選挙資金などの一助になるということもあったらしい。長い政治生活の大半を反藩閥、立憲政治実現のため活動したが、ともすれば少数党ゆえの労苦を味あわされたからだ。

 年代順に並べられた遺品やゆかりの書簡、パネルなどが数百点。尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称せられたり、中国への深い関心から、孫文ら革命派の亡命を援助したり、という経歴を容易にたどることができる。なかでも異色というべきは「新内閣の責務」と題する演説のレコードだ。満州事変のはじまった1931年(昭和六)に内閣総理大臣に就任したが、その後の選挙の際に行った演説で、テープ化されたものを聴いてみると、国外的には事変の解決、国内的には経済の回復を緊急課題としつつ、国の根本を立て直さなければならないと訴えている。

「維新六十年の間に、ほとんど不規律、不統制に発達したすべてのもの、そのものといえば何であるかといえば、政治経済、これを改めなければ、執務の執り方、もう少し簡易にできるのである。すべてこのひっくるめていえば、行政、財政の根本的立て直しを行わねばならん、これが政府の側である。ひとり政府の側ばかりではない、民間全体のすべてのものに向かって、大革新、大革正を行わなくてはならんという時機が、もはや到達しているのである」……。七十数年前の声とは思えない生々しさ。演説の内容にも、昨今の状況とそのまま重ね合うような臨場感があり、思わず耳を傾けたものだ。

 清廉潔白な性格の政治家の前に、維新の精神に逆行する勢力が立ちはだかった。軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺されたのは、1932年5月15日である(五・一五事件)。「話せばわかる」というところを、頭部に3発の銃弾を受けた。血に染まった座布団が遺されている。

もう一つ見逃せないのは、展示室に掲げられている「恕」と題する家訓であろう。13歳で父親を失い、思わぬ苦労をした上、政界入りの後も長いあいだ逆境にあって世の辛酸をなめ尽くしたがゆえに、貧しい人に対するたびに、もし自分がこの境遇にいたならば、と思うことが多い。ゆえに、いまだかつて使用人などを叱責したことはない。我が子孫もまた、この心をもって人に接すべし――という趣旨である。

 館内でもとめた『木堂逸話』という小冊子に、晩年身近にいた執事の回想が載っていたので、最後に引用しておきたい。「ただの一度も大声をお聴きしたことがないばかりでなく、書生さんにご用があれば、先生がこの室に来られて、ちょっと頼みたい用事があるがお前の方の都合はどうかと尋ねられるという風でした。夜、お帰りの際に玄関の灯りをと思うと、自分がつけると仰せられました。それは、私が足が悪いと知っておられたためです」(要旨)


◆五・一五事件以来83年。犬養毅が非命に斃れた歴史の教訓は現在に生かされているでしょうか。この紀行文は画家森山知己さんとの合著『吉備悠久』(2006年1月刊、山陽新聞社)中の一章「犬養木堂記念館」を抜粋したものです。森山さんの画作とリンクしましたので、ぜひご覧ください。
→ 森山知己さんホームページ内、「犬養木堂記念館 岡山市」