○吉備悠久

2015年07月27日

 犬島(岡山市)


 犬島は岡山市の邑久丘陵の沖合約2.8キロ、東西300メートル、南北540メートル、周囲約3.6キロほどの小さな島で、犬島本島のほかに沖鼓島、犬ノ島ほか七島よりなっているが、本島以外は無人島である。

 島の北東にある港に着くと、案内板を頼りに東側に向かう。この島のイメージが、まず明治に建てられた銅の精錬所跡にあることを、写真などで知っていたからである。だんだん近づくと、巨大な煙突が二、三本見えてきた。煉瓦製だが、百年の歳月にかなり風化し、上部が崩れ落ちているものもある。

 敷地(私有地)の中には工場や倉庫の黒光りする壁面が古代遺跡のようにのこされていて、その屋根だった部分が紺碧の空のもと、鋭いシルエットを形づくっている。しかし、なんといっても印象的なのは煙突だろう。そのうちの一本はほぼ完全な姿を保っていて、高さは四〇メートルもあろうか。形は幕末の大筒に似て、古さびた煉瓦の緻密な集積が、重厚な威容を発揮している。この一本で瀬戸内の海に雄々しく対峙している存在感はどうだろう。単なる煙突ではなく、モニュメントといってよい。

 明治四十二年(1909)、当時邑久郡朝日村に属していたこの地に銅の精錬所をつくったのは、坂本金弥という事業家だった。新聞社も経営したこの人物は、そのころの都窪郡(現在の倉敷市の一部)にあった小鉱山に蒸気機関を採用するなど近代化の一翼をにない、勢いを駆って犬島に進出した。大煙突から吐き出される黒煙が空を覆い、島には電気が引かれた。商店や歓楽街も繁盛したというが、その繁栄もわずか十年で終わりを告げ、精錬所は大正八年(1919)に閉鎖されてしまった。理由は不明だが、第一次大戦後の銅相場の下落によるものと思われる。その後二、三の化学工場がやってきたが、精錬所跡は廃墟となってしまった。

「すべての建築は究極において、廃墟となる。ゆえに建築は廃墟になった結果まで考えて作られねばならぬ」(立原道造)。廃墟というものには、何となく人を魅惑する力がある。西洋十八世紀には、古典時代の理想的な風景と現在の荒涼たる情景を対比させ、ひとり感傷に浸るという廃墟趣味が流行したが、魅惑的な廃墟空間が生まれるには、大自然という背景が必要だ。犬島の場合、それは瀬戸内の海と風と空であった。

 犬島の名を有名にしたのは、特産物である良質の花崗岩で、現在も島の西方には石切丁場がある。元和六年(1620)大坂城改修にあたり、岡山藩主の池田忠雄が犬島の巨石を海路で運んだというが、これが大阪城内で最大とされる巨石「蛸石」である。

 平成八年(1996)岡山城四百年の記念イベントで、15トンの石を引っ張らせたところ、百人ではビクともしなかったという。江戸時代には城郭用の巨石を運搬する技術があり、石の下にコロを入れ、多人数で綱を引っ張る「修羅木組」などという方法も知られている。海上輸送には筏の浮力を利用したが、潮のタイミングを測るのに熟練を要した。
 現在行われている大阪城の修復工事は、半世紀に及ぼうとうする息の長い工事だが、石垣にはほとんど犬島産の石が使用されている。このほか、岡山県内では池田家の墓所(和気郡)をはじめ、後楽園や牛窓の一文字の波止め、県外では鎌倉鶴岡八幡宮の大鳥居など、全国的に用いられている(犬島再発見の会編『犬島の石嫁ぎ先発見の旅』)。

 犬島という名の由来については、菅原道真にちなむ伝説がある。道真が九州に流される途中、西大寺沖で大渦巻に呑まれかけたが、どこからともなく聞こえてくる犬の鳴き声に導かれて船を漕いだところ、ようやく脱出することができた。夜明けに陸に上がってみると、そこにはかつて渡し守に与えた愛犬が石になっていたというのである。現在犬ノ島には犬の形をした大きな石がある。これらの島々は村上水軍の根拠地にもなっていたらしい。

 島の南はリゾート地区である。瀬戸内特有の穏やかな、大きな青い布を敷き延べたような海の正面には、四国の屋島が手にとるように見える。夏の営業期間が終わっていたため、海水浴場やキャンプ場に人影はなく、芸大の学生たちの手になるオブジェだけが午後の日射しの中にとり残されていた。この浜が整備されたのは最近のことで、島の振興の一翼を担うものとなっている。

(注1)上記の紀行文は、2001年8月22日に取材し、画家・森山知己さんの作品とともに同年9月16日号の「山陽新聞」掲載されましたが、その後森山さんとの共著『吉備悠久』(2006)に収録されました。現在の犬島は観光施設も整い、アートプロジェクトも開催されるなど、訪れる人も増えています。

森山知己さんの画作とリンクしましたので、ぜひご覧ください。
→ 森山知己さんホームページ内、「犬島 岡山市」