○コラム

2016年11月11日

 生きてるかい?
三田のキャンパス

三田のキャンパス
「生きてる会」というのは、私の大学時代の同窓会の名である。本年度は全員が80歳を超えたというので、出席を考えたが、私の現在の体調では不調法をやらかす恐れがあるので、やむなく欠席の通知を出した。

 高校の同期会の案内も届いた。「会えるうちに、会っておこう!」とあって、切実な思いに駆られたが、これにも欠席の返事を出すしかなかった。

 今月末ごろには、中学の同期会の開校70周年記念誌が出る。私はこの中学の2回生であると同時に、六三制教育の2年目の生徒で、大変貴重な体験をさせてもらった。いずれ詳しく書きたいと思う。

「同窓会」でネット検索をすると、あきれるほど千篇一律の集合写真の山がでてくるが、これは仕方がないだろう。みな人生を謳歌していて、着ていく洋服以外には何の屈託もなさそうだ。日本の未来はキミたちに任せたよといいたいのだけれど、それも少々ちがうような気がしてくる。

 そんなわけで、このコラムも締まらない感じになりそうだが、たまたま8年前、まだ私がクラス会に積極的だったころ、会誌に寄せた文章があるので、再録したい。そろそろ物故者が増える年ごろだった。

 偶然に同窓会仲間の目につけばうれしいし、まったく無縁の読者の方々にも、ご自分の同窓会を思い出すよすがともなれば幸いである。

 生きてる会の半世紀

「生きてる会」という名前は、たしか岩崎君の提案だった記憶がある。卒業前にクラス会創設の相談をした際、議長松岡君の「会の名前は何としますか」という問いに対し、私の傍らにいた岩崎君が「生きてる会」と、半分つぶやくように発言をしたのが印象にのこっている。そのときは「まあ、何と気が早い」と思わないでもなかったが、年を経るにつれグッドネーミングだと思うようになった。ほかの同期会が羨ましがっているとは思えないが…。

 三十歳を過ぎようとするころ、卒業後最初の会合があった。場所はどこであったか忘れたが、二十人ほど集まって互いの近況を報告したさい、田辺君が「もうお忘れでしょうが、田辺です」と挨拶したときには、ちょっと驚いたものだ。四年間も毎日教室で見かけた同級生を、わずか数年で忘れるわけはないと思ったからだ。しかし、あとになって、私のような存在こそ、印象の薄いものであったかもしれないと気がついた。

 何回目かの会合で、赤木君が常習の遅刻をした際、だれが幹事であったか「もうみんな挨拶は済んでしまったので、あとは赤木君だけです」といってマイクを渡した。これが恒例となり、毎回遅刻、毎回挨拶というのが生きてる会の定番行事となったわけだが、赤木君は承知でだまされていたにちがいない。無類の好人物だった。心から冥福を祈りたい。

 同じく故人となった竹内君も思い出の多い人だ。日吉の教室で『宇宙航路』とか『発狂した地球』といったSF本に読みふけっているところを、話しかけたのだが、卒業記念の文集に「ソ連戦車の現状と展望」なる長文のレポートを提出してきた時には、編集担当者の私としては大いに悩んだことを思い出す。

 卒業後は会合で語り合う程度だったが、竹内君が幹事となり、逗子マリーナを会場で映画会を催したころから、頻繁にメールの往復がはじまった。秋葉原などで顔を合わせると、半世紀前の映画少年がそのままの姿で、いまそこに立っているという印象を受けたものだ。

 病状が進んださい、医者嫌いで入院先さえ知らせてこないのには困った。面会場所は廊下の端の長椅子だった。そこに大儀そうに座った竹内君は、家から持ってきたミュージカル映画のDVDを、いかにも大切そうに撫でるのだが、やがてその気力も失せてしまい、一枚また一枚と床に落としてしまうのだった。

 とはいえ、竹内君にとって、こんな回想は迷惑だろう。生死は人の常である。半世紀にも及ぶ交友の間、たがいに「生きてるかい?」とさわやかに、軽やかにキーワードを投げかけ合う。それが年を経るごとに洗練されていくのなら、なおうれしいと思うのである。