○コラム

2016年12月11日

 真珠湾に思う


安倍首相が現職総理としてはじめて真珠湾に訪れるという。毎年開戦日には何か書きたいと思いつつ、五年前と十年前に一度ずつアップしたにとどまる。
その十年前のは、本webの前身である「吉備高原の工房にて」に出したもので、最近必要あって読み直して見ると、付け加えるべきことはないように思えるので、そのまま再録してみた。数字等もそのままである。

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■「時の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように飛び去り、過去は永久に静かに立っている」。――これは18世紀ドイツの詩人にして劇作家シラーの言だが、私たちの時代には「未来はためらうことなく迫り、現在は儚い電波のごとく消え去り、過去もまた静かに立つのを許されない」というのが実感ではないだろうか。

■戦後61年、社会全般に危機的な事態が重なっている。私は戦後の数々の危機的状況を経験してきたつもりであるが、昨今のような“ざわめき”と“切迫感”を覚えるのは初めてのことだ。

■このような時に思い出すのは、『大佛次郎敗戦日記』(草思社)である。『天皇の世紀』ほかのノンフィクションで知られる著者の、1944年(昭和19)から敗戦直後の10月までの日記である。配給品が不足し、毎夜防空壕に逃げこみ、デマが横行するような日常を丹念に記録しているが、感銘をうけるのは、このように誰もが浮き足立っている日常にありながら、海外古典を平生心で読んでいる姿勢である。

■「……親和力を読了。アウトイイリエ(オティーリエ)が追って来たエドゥアルドと宿で会うくだりにはやはり動かされる。第二部で変な淀みを感じさせられていた流動がこのくだりで俄にいきいきとしてしかも緊縮された姿で現れる。……何としても出て来る人間が人間以上である。……予定どおり年内はゲーテを読んでいようと思う。単独では退屈するからトルストイかほかの何かと平行させる。十一月はウィルヘルム・マイスター、十二月にファウストと取組むことに決めておく。比島沖海戦の綜合戦果、レイテ湾航空戦、成都飛行場群の夜襲に依る戦果と立続けの発表あり。ものすごいものであるが我が方にもやはり空母以下の損害ありと聴き心暗し。……」(1944年11月13日付)

■『親和力』『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』等々、落ち着いた環境でもなかなか読破し難い大長編と取り組んでいられる余裕は、戦時という環境を超越した心境的変化が生じていたためである。それまでは作家としてのスランプも感じていたようだが、この少し前の南方旅行(同盟通信社嘱託としての南方戦線視察)を契機に気持ちが整理されたということを、47歳の誕生日に綴っているのである。 

■「……自分の出来ることをすればいいのだと云う心の置き方が落着きと成って来ているように思われる。その出来得ることを怠りなく押し進めて行くのである。近頃になって生きていることが楽しくなった。勉強特に読書に心にふるえると云ってもよいほどの悦びを感じる。誇張でなく別の生き方が初っているのである。……いい仕事も無論したいが、それよりも自分という人間のevolutionである」(10月9日付)。

■このような心境は個人的な問題にすぎないように見えるが、むしろ時代と正面から向き合っていたことは日記の隅々に窺われる。物情騒然たる時代にあって、おのれを失わない生き方を発見した点にこそ、現代の私たちにとって重要な意義があるといえよう。

■大佛は戦地での死と隣り合わせの現実を体験したことから、考え方が変った。自分自身が欲するところに忠実でありたいと考えたのである。読書こそは、そのような本来の意味における主体性確立の表れであったと思われる。

■現在、慌ただしい内外の動きの中で、日常を大古典とともに過ごすなどということはアナクロニズムとしか思われかねない。それどころか、書物に淫するという行為を批判されかねない。しかし大佛日記を読んで、このような議論を超越した感銘を抱くことができるのはなぜであろうか。

■それは情報に囲まれている現代の私たちが、戦争や大量虐殺や大災害に直面するたびに、その解読作業だけに終始するようになってしまったからだ。「どんな記号的意味があるか」「メディア状況はどうか」といったことしか意識に上らないため、それ以前にあるべき自己の生き方や価値観の提示がきわめて困難になっている。大佛次郎の時代は情報過少の時代だったため、かえって個々の情報の行間を読み、主体的に判断する力が養成された。ものを考える習慣のある人間として、自分とは何か、何をなし得るのかという命題に接近することができたのではなかろうか。

■困難な時代であるほど、人は単なる情報解読のマシンであり続けることはできない。最近の哲学書のブームは、若い人々を中心にそのような反省が本能的に生じかけていることの表れであると信じたい。