○コラム

2016年12月31日

 奇跡の音、心の共有地
戦後間もないころの波止場

戦後間もないころの波止場
 除夜といえば、来年82歳を迎える老境に達しても、10歳の終戦の年、冷たい寝床の中で聞いた鐘の音がまざまざと耳もとによみがえり、半生のトラウマとなってしまったことを認識するのは侘しいことです。

 とりわけ今年は、ある地域で「除夜の鐘は騒音だ」という住民の抗議が発生、社会問題化しようとしている矢先でもあり、社会と人心の大きな遷移に、感慨無量ということもあります。

 この件は、前提として狭い住宅街に寺院があって、その鐘撞き堂を住職が一軒の住宅の軒に接せんばかりの場所に移動したことから発するらしく、深夜800〜900デシベルの鐘音に襲われる住民の気持ちにもなってみろということにもなるわけです。

 地域の信仰心の衰退ということもあるでしょう。経済学でいう「共有地の悲劇」(Trogidy of Commons)の典型で、寺も住民も市場原理にふりまわされるのは仕方がないが、公共としての磁場が荒廃してしまったのです。

 それはそれとして、一年の終わりに除夜の鐘を聴きながら、今年1年をしみじみと振り返る。西洋のニューイヤーイブの大騒ぎにも、古い例ですがチャップリンの『黄金狂時代』に描かれたようなペーソスはあるでしょうが、日本の情感とは比較にならないと思います。

 以下は3年前に当サイトに記した文章の採録です。


 終戦の年の十二月、横浜は満目蕭条たる焼跡の中でした。寺院などは影も形もなく、「こんな時世に、除夜の鐘どころではないよ」と母親の溜息に、十歳の私は幼い三人の弟妹とともに、早くから煎餅蒲団にもぐりこんでしまいました。さなきだに、バラックには容赦なく冷たい隙間風が吹き込んでくるのです。

 その夜半のことでした。港のほうからかすかに「ボーッ」という汽笛の音が響いてきました。私の住んでいた本牧から横浜港までは、直線距離にして一キロほどしかないのですが、外国人居留地の山手丘陵に隔てられているので、普段は汽笛の音など聞こえるはずもないところ、この年は遮るもののない焼け跡でしたので、難なく伝わってきたのでしょう。

「あっ、船の汽笛だ」寝付かれないでいた弟の叫びに、次の汽笛が重なりました。続いて三隻目の汽笛が……。瞬く間に港に停泊している、おそらくすべての外国船から発せられた新年の祝笛が、大きな音の塊となって、私たちの耳朶を打ったのです。

 そればかりではありません。この汽笛に刺激されたかのように、どこか遠いところから鐘の音が一つ、また一つと、あたかも湧き上がるように響いてきたではありませんか。「除夜の鐘だ」「どこのお寺だろうね」。戦時中の苛烈な金属供出の命令にあって、市中の寺からは梵鐘など一つ残らず徴収されてしまった筈でしたが、戦後三ヶ月半という大混乱のさなかに、どこをどう調達したのでしょうか。

 いまや家族全員が目をさまし、その奇蹟の音にじっと耳を澄ましていました。戦時中は禁じられていた汽笛吹鳴です。「戦争は終わったんだなあ」「もう、いくら何でも戦争をしたいと思う者はいないだろう」というのが、十歳のわたしの思いでした。このときの“胸ふたがれる”ような感動は、現在でも鮮明に甦ってくるのです。

(付記)以上を書き終えてから、NHKの2013年12月28日「音に会いたい」で、札幌市に在住の76歳の女性から、四十年前の大晦日に横浜港の汽笛吹鳴を、港湾病院(現在横浜市立みなと赤十字病院)で出産入院中に聞いたという投稿がありました。