○吉備悠久

2017年01月08日

 不洗観音寺 (岡山県倉敷市)


 きびしい寒さのなか、常磐色の葉には初春の日ざしが注いでいる。その静かな光景に見入っているうち、いつしか境内の一角にかすかなざわめきが生じ、新年の行事が済んだのか、信者の姿が目に入ってきた。親子連れ、夫婦、婚約者同士と思われる人々だが、総じて若いのも道理、ここは求子安産のご利益あらたかな寺院なのだ。

 岡山市の西方、早島インターチェンジから約二キロ。曲がりくねった丘の道をたどると、やがて真言宗不洗観音寺(倉敷市中帯江)の山門が目に入ってきた。門をくぐると、ただちに有名な影向の松がある。一見、背丈の低い灌木の林のようだが、じつは一本の松で、二抱えもある大きな幹から十本ほどの枝が放射状に張り出している。樹齢二百年、周囲約六十メートルに達するという張り枝が、地上から二メートル近い個所で無数の支柱により保持されている図は異観といってよい。「影向」とは仏語で、神仏の姿が一時この世に姿をあらわし、慈悲の光を放つことで、一九九〇年に倉敷市の天然記念物に指定されたため、各地からの参観者が増えた。

 不洗観音の開創は天平年間(七三九〜七四八)というから、遣唐使の吉備真備や阿部仲麻呂が活躍し、まだ東大寺の大仏が完成していなかった時代である。そのころ増慶という賢徳の上人があり、夢に現れた聖僧のお告げによって、一体の観音像を安置し、安産の寺とした。それに呼応するように山麓から湧き出た霊水が、いまも境内に沸いている閼伽水【あかすい】である。新生児をこの水で洗えば無病息災、かつ安楽に成長すると言われている。寺の縁起によれば、ずっと古いむかし、当地には生まれて三日三晩を経た赤子を、このわき水で洗うという習わしがあった。そのようにすれば、以後は身体を洗わずとも汚れることなく、無病息災に育つという。不洗観音の語源である。

 ただし、全国的な観音信仰という点から見れば、七四〇年(天平一二)の太宰少弐藤原広嗣の乱のさい、国ごとに七尺観音像をつくって反乱鎮圧を祈ったという事実があるので、不洗観音の場合もそのような動きの一つかもしれない。また、寺のある丘陵は鉱物資源を蔵するといわれ、元禄年間には池田藩に鉱山としての試掘願が出ているほどなので、地質的にすぐれた水が湧くということも考えられる。いずれにせよ、中世から近世にかけ広く子育て観音として信仰を集めるようになり、備中西国三十三ヵ所(現在の瀬戸内三十三観音霊場)の一番札所ともなった。

 不洗観音の長い寺歴を見ると、とりたてて有力者の庇護を受けなかったことに気がつく。あくまで子をさずかりたい、我が子の無事生育をという庶民の切実な願いを基盤に地道な歩みを続け、今日の繁栄にいたったのである。もともと観音とは危難にあたって救いを求める現世利益的信仰なのだが、寺は「観音さまが私たちを救うように、私たちも周囲の人々を救わなければならない。観音さまはあなた自身なのだ」という、開かれた教義を説く。

 境内の施設は祈祷所のある紫雲殿をはじめ、授乳席なども近年のものだが、本堂へと続く石段の両側に掲げられた絵馬の圧倒的な数には、だれしも度肝を抜かれよう。手入れが行き届いた中庭には、絶え間なくあふれる閼伽水の瓶を手にした十一面観世音菩薩(本尊)を模したブロンズ像も目に入るのだが、ひるがえってみると、古刹は単に古きがゆえに尊ばれるのではなく、じつはその伝統が新しいものの創成を促す信仰の活力によって、普段に支え続けられてきたということもいえる。

 このような不洗観音の性格は、伝統を継承しながら、文化の光を発信していくという考え方につながる。その一つは、最近数年間にわたった客殿再建である、約二五〇年前の建造になる客殿を、その元姿を尊重した再建するにあたり、新たに大がかりな襖絵の制作を、日本画家森山知己氏に委嘱したのである。客殿五室八面の襖・板戸三十二枚の絵は、二〇〇七年(平成十九年)に完成し、これまでにも時機を見ながら公開されてきた。玄関の間の「遊犬図」から、「鶴亀図」、「四季花木図」「四季・十二支扇形図」と続き、奥の間の「瀬戸内春望図」や「雪中竹林図」にいたる諸作だが、心温まる身近のテーマから次第に絢爛たる様式美へ、さらには水墨画に近い幽玄な境地へと移行する中で、伝統の技法を後世に伝えたいという作者の心情が、正面から伝わってくる。

 不洗観音の文化活動として、すでに多くの人に親しまれているものに、毎年五月十七日の縁日に境内で開催される薪能がある。一九九一年(平成三)から十数回を数えるが、能では金春流、喜多流、金剛流、観世流などの重要無形文化財保持者を、狂言では人間国宝茂山千作師をはじめ、親しみやすい狂言をモットーとする大蔵流の名人を招いている。

 二〇〇五年(平成一七)には大蔵流の狂言「三番三」「福の神」、観世流の能「猩々」などが奉納された。夕方の境内は大にぎわい。すでに三百の席は満席となって、静かに開演を待つ。定刻の六時、赤い法被を着た稚児を先頭に、招待の関係者、僧侶らが散華を撒きながら入場し、長い棒に点火を受けてから、森を背景にしつらえられた舞台左右のかがり火台に火を入れる。最初の狂言がはじまるころ、境内に急速に忍び寄る闇を駆逐するかのような、天を焦がすほどの炎が舞台に活気を添える。「猩々」のシテは浦田保利。「福はここに、ここに」と登場する猩々の豪放な笑い声が、初春の境内に甦ってくるように思われた。

(注)テキストは森山知己氏との共著『吉備悠久』(二〇〇七)より縮約したものです。取材時期は、本殿や薪能などは二〇〇五年に、客殿襖絵の完成はその二年後の拝観となりました。なお、襖絵の公開は不定期ですが、本年(二〇一七年)には久しぶりに公開されるとのことです。森山さんのホームページとリンクしましたので、ぜひご覧ください。

→ 森山知己さんホームページ内、「倉敷市中帯江 不洗観音寺」