○コラム

2017年02月10日

 四字熟語すらも危うい
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 最近、稀勢の里が横綱昇進の伝達式にあたり、どんな四字熟語を使うかという期待が広がったが、肩すかしを食わされたということがあった。消え失せつつある伝統的表現を、せめてこのような場面ぐらいは発揮してほしかったと思うのは、私一人ではないだろう。

 もう十年以上も前の話だが、美しい日本語を、声を出して読むことをすすめる本が、ベストセラーとなったが、それを受けた形で、時の宰相が文語文の復活を提唱するという話題もあった。こういう動きはすぐに忘れられ、同工異曲の本が途絶えることなく出版されるが、なんらかの効果があったという話は聞いたことがない。

 それはともかく、私は文章を声を出して読むことには、ある程度賛成だ。詩の朗読を楽しむ各国の習慣には学ぶべき点が多いと思っている。ことばの響きやリズムを洗練させるためにも、言語学習、言語生活の幅をもっと広げることが必要かもしれない。それには文語文が適している。

 もともと日本には、意味がわからなくても声に出して読むという「素読」の伝統があった。その伝統がなぜ衰えたのかといえば、漢文や文語文そのものが、新しい時代の生活に適さなくなったからだ。こまやかな心理描写や論理性の発揮にも不便ということから、明治以後の口語化の流れに抗しきれなくなった。

 それでも昭和戦前ぐらいまでは、たとえば漢文の素養は知識人の間に保たれていたが、戦後は高校の必修科目からも外されてしまった。その結果、「堅忍不抜」「一意専心」などという、漢詩や経典に由来する簡単な四字熟語でさえ難解とされるに至った。一九九四年、貴乃花の昇進にあたって、「不惜身命」ということばが飛び出したとき、記者たちは大あわてで辞書を引いた。戦前戦後を通じてのベスセラー作家山本有三の名作の題名であるが、だれ一人思い出す人もいなかった。

 ことばを平易にするという、戦後の国語改革の理想はよいとして、力強さやメリハリとあわせ教養をも失う結果となったことは、残念というしかない。

 現代日本の社会環境や教育現場に、ただちに文語文が受け入れられるとは到底思えない。最も簡単な文語文を教えるにも、教育漢字を飛躍的に増やさなければならない。英語だ、ITだと追われまくっている教育の現場では、漢字の教養≠ネんか(口にこそ出さないが)じつはよけいものなのだ。

 第一、古典をはじめとする文語文の世界は、儒教的な教養や、「花鳥風月」に代表されるような身近な自然に根ざしていた。そのいずれもが現代社会からはまったく失われてしまっている。それよりも、混乱し停滞している現代の日本語を、いかに表現力の豊かな、朗唱に足るものに改革していくかということ、その問題意識と方法論をもつことのほうが、先決かもしれない。

 日本語が美しく表現豊かだとすれば、その源泉は過去の時代の創造的な文化にあることは自明である。現代の日本で、日々に生み出されることばは、片仮名ばかりの外来語か、すぐ消えてしまう流行語ばかりとなってしまっている。この趨勢には、もはや抗うことすらむずかしいが、せめて過去の文化遺産から得た日本語の活力を、少しずつでも現代のことばに吹き込んでいくほかはないだろう。