○寄稿再録

2017年03月26日

 南方熊楠生誕150周年
晩年の南方熊楠

晩年の南方熊楠
 南方熊楠の業績を語るとき、よく耳にするのは「博物学の巨人」という表現である。なにしろ戦後になって熊楠の存在を知った私の世代は、最初の手がかりが平野威馬雄の先駆的伝記『博物学者南方熊楠の生涯』(一九四四)だったので、一層その感が深い。

 現代にあってもごく少数ながら博物学的な性格を有する研究者がいないわけではないので、その総本山的な位置に熊楠を配することには異論があるはずもない。しかし、博物学というのは現在のアカデミズム中心の学問分野には存在しない。明治に生まれたこのジャンルは、後世の自然科学の動向に従って、生物学あるいは動物学、植物学などに分岐し、いまや歴史的呼称として遺されているに過ぎない。

『広辞苑』にも「動植物や鉱物・地質などの自然物の記載や分類を行った総合的な学問分野。明治期にnatural historyの訳語として用いられた」とあるように、熊楠の最もまとまった成果を示す粘菌類の研究にしても、現代の分類からいえば自然科学の一分野でしかないのである。

 同じ辞書に「博物」の意味の一つとして「ひろく物事に通じていること」が挙げられているが、いわゆる博覧強記の代表としてのみならず、事物への分け入りの深さにおいて、熊楠をしのぐ存在がそう多いとも思えない。そのことは、たとえば粘菌類だけを取り出して熊楠を論じることが不可能だし、無意味であるという議論にもつながっていくであろう。

 南方学の本質が何であったかを知るには、学問の今日的な分類にこだわるよりは、まず熊楠自身が何を目的に学問をしたのかということを問題にするほうが早道である。たとえば代表的な著書の一つ『十二支考』(一九一四〜二三)に、古今東西の犬の鳴き声を論じた個所がある。古代ギリシャの例や中世フランスの文献、日本の近世文献ほかを縦横に引きながら、「犬の鳴くを本邦では鳴くとか吠えるとかいうばかりだが、支那にはいろいろとその区別があるらしく、英語になるとバーク、イェルブ、ナール、ハウルなどと雑多な種別があって、それぞれ一語で犬が怪しんで吠えたとか、苦しんで吠えた、悲しんで吠えたと判る。どうもこんなことにかけては日本語はまずいようだ」などという感想を述べている。このような細部をとりあげて、熊楠論文の基調を云々することはできないが、その一端は窺うことができよう。多くの読者が連想されるように、これは博覧強記の人の〃雑学〃ないしは〃談義〃といった性質のものである。

 熊楠の著書は一般にはほとんど読まれていないようだが、それは厳めしく難解な本という印象からであろう。たしかに著書や書簡を学問的な論文ないし資料として通読することに、ある種の努力を要するのは否定できまい。発想・文体ともに奇想横溢、不羈奔放のために著しく体系性を欠き、論理展開の流れや結論を把握するのも容易ではないからだ。もっとも、それはあくまで論文や資料として見た場合のことで、ひとたび雑学として見直した場合にはまさに光彩陸離、ページの間から五彩の雲がわき上がるような錯覚すら覚える。

 ただし、急いで補足しておかなければならないのは、ここでいう雑学は近世日本の学者文人たちが学問研究の方法、手段とした雑学である。封建制という窮屈な制約の下、成長も多様な展開も阻まれていた知的情熱や好奇心のおもむくところは、せいぜい書籍の収集か随筆雑著に手を染めることしかなかった。

 私たちは、その無数の書目の中でいささか体系性のある業績を残し得た例として、日本最初の百科事典である寺島良安の『和漢三才図会』、風俗文化史事典のはしりといえる喜田川守貞の『近世風俗志』(『守貞謾稿』)や喜多村*庭の『嬉遊笑覧』)などを挙げることができる。学問の出発点は何よりも旺盛極まりない好奇心であり、知識という名の雑学の集積であり、その奔放な発露にほかならなかった。南方熊楠はこのような近世型学者の直系の子孫なのである。

 熊楠は少年時代に近所の書店で、『和漢三才図会』百五巻八十一冊を少しずつ立ち読みし、帰宅して書きとめるという方法で、ついに全部を写しとってしまったという。このエピソードは熊楠の非凡な記憶力を証するために引用されるが、じつは尋常ならざる知的好奇心の発露としなければなるまい。明治初期という新時代に成長した少年が、頭の上の重しが除かれて、がむしゃらに身近の知的対象に向かっていく。その出発点こそが本屋の店頭の『和漢三才図会』だったのである。

 いまでも熊楠の書庫には、一八八二(明治十五)年から二十一年にかけて活版本として翻刻された四冊本の『和漢三才図会』(うち一冊は『総目録』)が遺されている。私は先年許しを得て披見する機会を得たが、さすがに熊楠の座右の書だけに、きわめて書き込みが多く、とりわけ印象的だったのは、『総目録』の痛みがはげしく、ほとんど背表紙が失われていることだった。この巻だけは百五十ページ足らずの薄いものだが(本巻は各巻ともその十倍)、索引がわりに用いたものと見える。熊楠は非常な愛書家だったようで、他の本は多くカバーつき美本なのだが、この『和漢三才図会』総目録だけは損傷している。それも本巻より傷んでいる。ということは、私の推測だが、本巻の記述自体は少年時代からすべて頭に入っているので、総目録はその記載個所の確認のためだけに、頻繁に用いたのであろう。私は熊楠の学問、すなわち博物学の原点を見る思いで、非常に感銘を受けた。

 より大切なことは、熊楠の研究者ならだれでも指摘することだが、熊楠は人を楽しませようとしている。時にはそのために、ふざけた世俗的表現や話題を取り入れることも辞さない。しかし、何よりもそれには彼自身が学問を楽しんでいたことを見逃してはなるまい。博物学は熊楠にとって、知的快楽の源泉でもあったのだ。

(注)熊楠については、本ブログでも数回言及している。今年は生誕150周年にあたるということで新稿をと考えたが、体力が許さないので、1905年に「フロント」という雑誌に寄稿した短文(「南方熊楠と博物学」)を再録することとした。ちなみに、私の熊楠に対する思いについては、22年前田辺の南方旧居の取材をもとにした『日本博覧人物史』(1995)をご参照いただければ幸いである。