○寄稿再録

2017年07月29日

 獅子文六 小伝(1)
獅子文六(1964年)

獅子文六(1964年)
 獅子文六の作品が復活している。これは間もなく終焉を迎える「昭和」へのノスタルジーにすぎないのかもしれないが、私は数年前、おもうところあって文六再評価の短文を書いたことがあるが、単行本に収録する機会もないと思うので、ここに二回に分けて掲載することにしたい。
 掲載誌は“Best Partner”(浜銀総合研究所、2012.10)である。参考文献は最終回の末尾に記す。

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 開港地で育んだモダンな感覚
  濃密に描き出した昭和の世相
   獅子文六(1853-969)
                  
よき時代のハマっ子
 戦後の読書界を風靡した作家獅子文六は、横浜出身ということや活動期間の点で大佛次郎と比較される。文六のほうが四歳年長だが、いずれもフランス文学・演劇の影響を受けながら、昭和の激動期における日本人の姿を活写し、幅広い読者層の共感を得た。両人ともデビュー以前には、小説を書くことなど考えてもいなかった。

 しかし、それぞれの持ち味はだいぶ異なっている。大佛は現実社会から一歩距離を置いて、時代劇に登場させたヒーローに夢や希望を語らせたり、体制批判を行わせたりした。一方の文六は、当代の世相風俗にピリッとした諷刺を利かせつつ、その中に躍る愛すべき庶民像を創造してみせた。

 獅子文六は明治二十六年(一八九三)七月一日、横浜市のビジネス街、弁天通三(現、中区弁天通)に生まれた。本名は岩田豊雄である。長男で三歳年長の姉と、のちに二歳年下の弟ができた。父親の成穂は豊前国中津(現、大分県中津市)の武士(二十人扶持)で、同じ藩の先輩福澤諭吉の忠実な門下生だった。尊攘論者だった成穂は、西洋かぶれの福澤暗殺を図る一味に荷担していたが、時代の流れで宗旨を一転、慶應義塾に入ったのである。

 成穂は明治十六年ニューヨークのカレッジに留学し、帰国後に弁天町で絹物の貿易と小売商を兼ねた岩田商店を開業した。さいわい順調だったので、翌年には水町通り三十五番地に移転、野毛月岡町に住居を構えた。水町通りは海岸通から一区画入った繁華な場所で、現在の山下町マリン・タワーの付近である。野毛月岡町は現在の西区老松町にあたる閑静な地区で、付近の税関官舎には、その十年ほどまえに、有島武郎や里見惇が住んでいた。

 母親はアサジといい、三河吉田(現、愛知県豊橋市今橋町)の藩士平山甚太の娘である、父親の平山も横浜に商機を求めて進出、旅館業と三河名物の花火製造業で成功した。明治十年ごろ岩田成穂と共同して高島町に煙火製造所を設立、米国独立祭などの花火需要で事業を拡張した(『横浜成功名誉鑑』(一九一〇)。

 つまり、文六の母方も開港地に進出した商人の一人であった。その横浜は、文六の生まれたころには生糸合名会社や米穀取引所の設立に見るように、第二の発展期であった。
 
父の死で傾いた家業 
 文六少年にとって、大きな洋館の建ち並ぶ居留地は外国と同じで、父親の店へ行くのが無上の楽しみだった。建物は中国人の服地商のものを月額百円の家賃で借りていた。一階はハンカチや絵日傘などで溢れ、二階には高価な壁掛けや屏風が陳列が陳列されていた。「そういう商品の最高価格は、たしか百円で、そんな壁掛けでも売れれば、店員にご馳走が出て、買った外人を、日本料亭へ招待し、芸者の手踊りを見せる慣わしと、聞いていたから、百円の価値は、今の百万円に相当したのであろう」(『父の乳』一九六七)。

 近所の西洋人の子どもと仲良しになり、ユダヤ人の菓子屋では主人から首にナプキンを巻かれて「この世のものとも思われないほど」美味なシュークリームを食べさせられたというが、このような幸福な時代は長く続かなかった。九歳のときに父親が五十歳で病死してしまったからである。母親は店の切り盛りに忙しく、文六も入学した老松小学校で教師の虐待にあうなど、何かと面白くないので、慶応の幼稚舎に転校することになった。福澤の片腕で中津出身の塾長小幡篤次郎が、文六(豊雄)の身元保証人になってくれた。慶応の校風は自由で、同級には蜂印葡萄酒の社長神谷傳兵衛の息子をはじめ、実業家、華族、外国人などの子弟が多く、それまでに経験した下町の小学校とは雰囲気がちがっていた。

 それはよかったが、家業のほうは急速に傾いた。日露戦争や戦後不況の影響もあって客足が遠のき、店と住まいが一緒になり、本町へ、南太田町へと転居を繰り返すまでにいたった。店員も一人去り二人去って、支配人が店を牛耳るようになり、あろうことか母親と通じているという噂が立つようになった。ちょうど反抗期になっていた文六の粗暴な言動を、母親がもてあますようになると、この支配人が出てきて折檻を加えるようになった。体力のついてきた文六は、あるとき支配人を投げ飛ばしたことから、「廃嫡の外はない」などと罵られ、憎悪が頂点に達した。そのころ子供にも買えたピストルに弾をこめると、支配人に狙いをつけた。撃鉄が半分起動するのが見えたが、「そこから先に、困難があった。旧式のピストルは、完全に引き金をひくまで、かなりの力を要するのだが、その最後の段階が、どうしても踏み切れないのである」(前掲書)

 不祥事は回避されたが、ここまで行けば末期的である。明治四十二年(一九〇九)三月、岩田商店は二十五年の歴史を閉じ、母子は開港五十周年の準備に忙しい横浜を後に、東京府下の大森山王(現、東京都大田区山王)へと移転した。支配人との縁も切れた。

幼き日のイサム・ノグチと出会う
 商家の総領息子として、乳母日傘で育った文六は、わがままで根気に乏しく、自閉的な性格から突拍子もない行動に駆られることも多かった。本町時代には他人の家の屋根から屋根へと伝う悪戯に熱中したり、朝から騒々しくラッパを吹き鳴らして、地元の新聞に投書されたりといったエピソードもあるが、一向に勉強の意欲が湧かず、将来の方向性も定まらずにいた。それが当時片田舎の大森に移転してからは、多少性格も落ち着いて、四季の草花を観察する余裕も生まれ、近所に文芸好きな友人を見つけて読書に励んだり、毎日創作ノートをつけたりするようになった。
 
 開港地育ちの癖で、外国人の家庭も気になった。近所の貸家にアメリカ人の母親とその幼い息子が住んでいることも気になった。姉が探索したところでは、母親の名はレオニイド、息子はイサム・ノグチという名であった。アメリカから子の父親のヨネ・ノグチ(詩人の野口米次郎)を追ってきたのだが、すでに日本人の妻がいると知って、仕方なしに別居しているという。文六は一度、色の浅黒い長髪の男が貸家の門を入っていく姿を目撃したことがあるが、それよりもレオニイドの容姿のほうが印象的だった。「きっと、美人で、弱々しい女性だと想像してた。ところが、一度、往来で、彼女に会ったら、雲をつくような大女で、赤い、角張った顔で、悪くいえば、鬼瓦に近かった」(前掲書)

 彼女の名は正確にはレオニー・ギルモアといい、ニュージャージーの女学校で教師をしていたが、野口の英文小説の校正助手となったことから恋愛関係を生じ、婚約したが、一九〇二年にイサムが生まれたころには破局を迎えていた(ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』)。文六はイサムと相性がよく、鉄棒などで遊んでやったこともあり、夫人からは紅いランプのある部屋で英語を習ったりしたので、ほどなく親子が転居してしまうと、いいようのない寂しさに襲われ、それを紛すように『紅いランプの家』という小説に仕立て、田山花袋の「文章世界」に投稿した。夫人の姿は、当然のように独り住まいの、淋しい、美しい存在として描いたが、意外にも「首席」を獲得した。

 幼稚舎時代にも「少年」に投書して採用されたことがあるので、文六が「ひょっとしたら、おれは文才があるのではないか」と思ったとしても不思議ではないが、回想によれば、当時は筆で食べていくようなことは夢にも考えていなかった。それよりも、この二十年後、自身が外国人の妻をもって、たいへんな苦労をするとは想像もしなかったとある。