○コラム

2017年08月04日

 獅子文六小伝(2)
文六と最初の妻マリー

文六と最初の妻マリー
フランスに渡って国際結婚
 文六の学業は惨憺たるものだった。慶応普通部を三年で落第、何とか理財科予科(経済学部)へ進学したものの、登校する気も起きず、すぐに文科へと転じたが、永井荷風の講義に対しても批判的な気持を抑えることができず、ついに大正二年(一九一五)、学業を捨てる決意をした。
 
その五年後、母親が病没、弟は社会人となったのを機に、フランス渡航を決心をした。父親の遺産を処分し、横浜港を後にしたのは大正十一年の春だった。

 パリでは、画家や文士の卵が集まるラテン区に下宿を定め、自由の空気を吸った。海外に渡った作家の多くは、そこで人生を左右する体験をするものだが、文六も例外ではなく、その第一は演劇であった。画家の川島理一郎(のちの日展理事)の案内でジアギレフの舞踊を見てから、演劇の魅力に目覚め、市中の大小の劇場に連日入り浸っては、演出や演技、舞台装置、衣裳にいたるまで、分厚い特製ノートに記録し続け、その結果、純演劇研究を決意するにいたった。三十歳を過ぎて、ようやく人生の目標をつかんだのである。

 もう一つは恋愛である。それまでの文六をめぐる女性は思春期の憧れや好奇の対象という程度であったが、遅い青春の最後に出会った相手は例外であった。マリー・ショウミィという、中部フランス小学校長の娘で、パリのアメリカ人経営の商社に勤めていた。目立つ存在ではないが、「質実と、穏やかさと、そして露わでない聡明さ」に惹かれたという。

 といっても文六に結婚の意思はなかった。彼女のほうも「結婚なんて下らないことだ」といっていたようだが、妊娠したことで考えが変わり、日本に行くといいだして文六を慌てさせた。大正十四年帰国マリーを伴って帰国、八月二十六日女児が生まれた。巴絵という日本名とし、中津に残る最後の資産を売却して杉並区和田堀町の文化住宅に入ったが、新婚気分どころではなかった。マリーは、演劇書の翻訳以外に収入の途がない夫のため、一回二十銭でフランス語の出張教授に出なければならなかった。このような綱渡りの生活が四、五年続くうちに、マリーの心身には異常が生じてきた。慣れない日本の生活に心労が重なったのであろう。

 治療費もなく、福祉は生き届かず、外国人への偏見も強い時代である。万策尽きた文六は、巴絵を朝鮮の平壌在住の姉夫婦に預け、病妻をフランスの実家まで伴い、療養に専念させてみたが、一向に改善の兆が見られないので、単身帰国した。昭和七年(一九三二)、巴絵が小学校に入学したのと同じ月にマリーは心筋炎で死亡したが、文六は岳父からの一ヶ月遅れの手紙によって、はじめてその事実を知った。それには臨終のさい、妻が娘の名を声高く叫んだとあった。

 文六は国際結婚の難しさをテーマに、『東は東』という戯曲を書いた。さらに三十五年後、『娘と私』(一九六七)という回想録に、妻に先立たれた悲しみと娘を男手一つで育てた惨憺たる苦労を綴った。人間的な誠実さと無限の情感に溢れている点で、現在では文六の最高作の一つに数えられている。

家計を助けた小説の執筆
 このような苦しい時期にも、文六は地道な演劇活動を維持し、昭和十二年(一九三七)には「真に魅力ある現代人の演劇をつくりたい。現代人の生活感情にもっとも密接な演劇の魅力を創造しよう」という理念にもとずいて、久保田万太郎、岸田国士らと劇団文学座を興した。五十年ずつ拠出し合ったのだが、座名も紋章も文六が考えた。

 活動維持のためにも、収入源が必要で、すでに気が進まないながらも小説に手を染めていた。第一作は『金色青春譜』(一九三四)という戯作風のユーモア小説で、雑誌「新青年」に一年間連載された。初夏のK海浜都市(すなわち、鎌倉)を舞台に、金以外のものに興味のない高利貸の青年と、美しき有閑マダムとの恋の駆け引きを描いているが、ここではじめて獅子文六というペンネームを用いた。獅子は百獣の王ではなく、長唄「石橋」に出てくる幻想的、宗教的動物であり、ブンロクはブンゴウより一つ上という洒落であった。

 この作品は当代の尖端風俗を扱ったテーマといい、テンポの早いモダニズム調の文体といい、探偵小説を基調とした「新青年」に新風を呼び込んだことから、一躍注目を浴びることになった。四十一歳にして、流行作家となったのである。前後して、姉の紹介で共立女学校の和裁教師をしていた富永シヅ子と再婚した。虚弱な娘の面倒を見てもらいたい一心からだった。
 最初の新聞小説(報知新聞)は、母親に死なれた少女を描いた『悦ちゃん』(一九三六)で、翌年日活で映画化された。『楽天公子』『青空舞台』『胡椒息子』などの佳作も次々に映画となり、臨戦体制下の窮屈になりかけた世相に爽やかな空気を送り込んだ。
 昭和十七年(一九四二)、開戦の翌年、本名の岩田豊雄名義で「朝日新聞」に連載した『海軍』は、真珠湾攻撃に加わって殉職し九軍神(九勇士)の一人、横山正治少佐(小説では谷真人)をモデルとした長編小説で、幕末の薩英戦争なども織り込みながら、主人公が軍人教育を受け、短い生涯を閉じるまでを描き出している。

 西洋の教養豊かな文六は、けっして好戦的ではなかったが、当時の多くの作家同様、初戦の勝利に酔い、国民≠ニしての高揚感を自覚した。しかし、この小説では主人公の神格化を避け、人間味溢れる薩摩隼人として、静かな感銘を与えようとつとめている。その一例は東京駅で英霊となった真人の遺骨を迎える親友の画家と、真人をひそかに慕うその妹が、待合室の片隅にたたずみ、群衆の背後からそっと合掌するラストシーンで、抑制の美学を意識した筆致が深い余韻をのこしている。同年度の朝日賞を受賞した。
『海軍』は静かな感銘ゆえに、かえって国民の戦意を高揚させたともいえる。文六は執筆前に取材に訪れた鹿児島で、遺族(母と兄)の謙虚な人柄にうたれ、「二人はいつまでも鹿児島市民に守られて、安らかな生活を送るだろう」と思ったが、その後鹿児島空襲で二人が亡くなったことを知って、「軍神という名は何と空虚であったか」と暗澹たる心境に変わった(実際に亡くなったのは母と三人の娘で、ほかに次兄と四兄も戦死ないしは戦病死している。さらに戦後の調査で、軍神の戦果≠ニいわれるものが、ほとんど誤認であったことが明らかになっている)。

戦後の横浜を活写
 戦争末期には湯河原に疎開した文六だが、自宅を空襲で焼かれ、洋書や演劇資料はすべて灰になり、戦後は貸家が見つからず、妻の郷里愛媛県北宇和郡岩松町(現、宇和島市津島町)に移転しなければならなかった。軍に協力したことで公職追放の仮指定を受けたが、関係者の奔走で辛うじて取り消されるという一幕もあった。

 しかし、文六は転んでもタダでは起きなかった。その岩松町を舞台に、辛辣なユーモア小説『てんやわんや』(一九四八)をものしたのである。戦時中情報局に勤務していた主人公の犬丸順吉は、戦犯容疑を恐れ、ボスの代議士鬼塚の郷里相生町(岩松町がモデル)に逃れるが、その地で出会ったのは饅頭食いの越智善助、うなぎ取り名人で四国独立を夢見る僧侶拙雲など、浮き世離れした人物ばかりだった。一日、県境まで遠足を試み、山中で旅人を夜伽する美しい娘と夢のような一夜を過ごすが、後日再訪したときには、娘は嫁いでしまっていた。そのうちに南海大地震に覆われた町は壊滅状態となった。戦後の荒廃した世相が、桃源郷のような山村の僻地にも徐々に及ぶというアイディアが秀逸で、獅子文学の新たな境地を示した。

 昭和二十四年(一九四九)、五十六歳の文六は静かな余生を送りたいという心境から大磯に居を移したが、翌年妻に先立たれた。この時期に「朝日新聞」に連載した『自由学校』は、軽佻浮薄な自由≠フ謳歌を諷刺した小説として、人気を博した。通信社に勤める南村五百助は、会社の人間関係に嫌気がさして退職、家でゴロゴロしていたが、ある日妻の駒子に「出ていけ!」といわれたのをきっかけに家を飛び出し、お金の水橋(お茶の水橋)の下で放浪者の仲間入りをする。

 一方の駒子も所在ないままに、周囲の男に目を向けるが、いつしか夫が恋しくなってくるという具合で、それぞれの人生遍歴の中に文六の戦後社会への批判が盛り込まれている。駒子の「出ていけ!」という痛烈なセリフは、職場や家庭の大評判となり、大映と松竹から競作の形で映画化されるということになった。この話題作が五月上旬に一斉公開されたことからゴールデンウィーク≠ニいう新語も生まれた。

 横浜市を舞台とした『やっさもっさ』(一九五二)も忘れられない。根岸の混血孤児養育施設(大磯のエリザベス・サンダース・ホームがモデル)を舞台に、敗戦ボケの無気力な夫と、事業欲に燃える妻を軸に、盛り場にたむろする街娼、純情な黒人兵、色と金の二股をかける外国人詐欺師などが登場するが、人物よりも当時中心部の六二%を駐留軍に接収され、植民地のような光景を呈した横浜が活写されているところに、歴史的価値がある。横浜駅のシューマイ弁当の女性販売員を登場させ、一躍全国的にしたのも功績だった。

ちなみに文六によれば横浜の全盛期は関東大震災以前にあるが、その眼底に残る姿を幼いころに死別した父親の像と重ね合わせた『父の乳』(一九六五)は、自伝文学としての傑作であると同時に、古い横浜を知る上でも得がたい資料となっている。

 戦後日本人の戸惑いと混乱を描くことで人気を博した文六は、高度成長期に入ると、一転、バイタリティーに富む庶民の英雄を創造した。昭和三十一年(一九五六)から約二年間「週刊朝日」に連載された『大番』の主人公赤羽丑之助である。昭和初期の宇和島地方に生まれ、図太さと絶大な精力を備えた愛すべき巨漢だが、ガリ版でラブレターを大量生産し、その一枚を地元資産家の令嬢に手渡したことが問題化、村からを夜逃げする羽目となった。上京して日本橋兜町の小さな仲買店に就職、株式相場の世界に足を踏み入れた。生き馬の目を抜くような世界だが、次々に現れる難局を持ち前の度胸と天才的なひらめきを武器にノシ上がっていく過程は痛快そのもので、読者を熱狂させた。モデルは新潟県出身の仕手筋佐藤和三郎だが、丑之助はモデルを超えた人気キャラクターとなってしまった。

 完結後、文六は身体の衰えを感じつつ、なおも観光地開発を扱った『箱根山』(一九六一)、孤児養育施設のボランティア女性の実録『アンデルさんの記』(一九六二)ほかを発表、昭和三十八年(一九六三)芸術院賞を受け 翌年芸術院会員、一九六九年文化勲章受章、同時に文化功労者となったが、その十日後に脳出血のため赤坂の自宅で死去した。七十六歳であった。

 その後の半世紀。日本は幾多の変遷を経て低成長時代に突入、文六の描いた昭和戦前はもとより、高度成長時代さえ知らない世代が、人口の過半を占めるようになった。それにつれて読者は、『自由学校』の五百助や『大番』の丑之助に対してリアルなものを感じられなくなったのか、往年のように争って読まれることもなくなった。

 しかし、困難な時代にも明るさとゆとりを忘れず、辛辣な中にもヒューマンな精神を失わなかった作家獅子文六に、近年あらためて再評価の声があがり、初めての伝記も出現した。昭和という空間を濃密に描いた文六は、まだ過去の作家にはなっていないと信じたい。

 
■参考文献 『獅子文六全集』全十六巻・別巻一(朝日新聞社、一九六八〜一九七〇)、原田一郎他編『横浜・作家のいる風景』(横浜市中区役所福祉部、一九八〇)、福本信子「獅子文六先生の応接室 『文学座』騒動のころ」(影書房、二〇〇三)、赤塚行雄「回顧録--獅子文六の場合」「公評」二〇〇五・九(公評社)、南谷覺正「獅子文六『自由学校』について--敗戦・占領体験と日本の『夫婦』」「群馬大学社会情報学部研究論集」(群馬大学社会情報学部、二〇〇六)、牧村健一郎『獅子文六の二つの昭和』(朝日選書、二〇〇九)