○寄稿再録

2017年09月05日

 平野威馬雄 小伝(1)
平野威馬雄

平野威馬雄
 相変わらず政治家には"失言"が多いが、その内容はほとんどが差別関連である。この差別に悩まされた作家として、平野威馬雄(ひらの・いまお)の名を忘れてはならないだろう。彼の出身地である横浜は、差別が少ないというイメージがあると思われるが、じつはそうではなかったということを、私は以下の略伝執筆のさいに認識させられた。
 原文は既出の「獅子文六 小伝」と同じく、浜銀綜合研究所の機関誌"Best Partner"に寄稿したものであるが、さしたり単行本化の予定もないため、ここに再録することにしたい(全二回、分載)。

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 異国の父への憧憬を胸に
  風雪の時代を歩んだ作家の軌跡
   平野威馬雄(1900〜1986、作家・詩人)

 懐かしき明治の横浜
 明治四十二年(一九〇九)の夏、平野威馬雄は尋常小学校の三年生だった。横浜西区の高台にあった老松小学校の校庭には、藤棚の花が咲きにおい、数百メートル彼方、横浜駅(現、桜木町駅)付近の弁天橋が、陽炎にゆらいで見えた。

「今日は夏休みなのに、みんなに来てもらったが、それにはわけがあるのだ」と、受け持ちの辻先生が、太い八字ひげをひねりながらいった。「東京のえらい学者の先生が、ヨコハマ市の歌をこしらえてくだすったので、きょうは校長さんが、それを市役所にいただきにいかれた。みなさんが、これから毎日うたうよい歌をお迎えに行くのです」

 ヨコハマ市の歌って、なんだろう。威馬雄少年は、ほかの生徒たち同様いぶかしげな顔で、学校からほど近い野毛坂に引率されていった。坂の両側にすでに人でいっぱいだった。
 待つほどもなく、遠くから漆塗りの人力車がガラガラと鉄輪の音をたてながら近づいてきた。当時はまだゴム輪がなかったので、すさまじい音である。引いているのは、野毛坂下の車屋の松さんで、頭にはまだチョンマゲを乗せていた。

 車上の校長先生は小柄で、威馬雄少年の目には「らっきょうのひねたような」風采に映った。その人がうやうやしく紫の袱紗に包んだもの(歌詞を記した巻物)を捧げている。生徒たちが最敬礼する間もなく、車は目の前を通り過ぎていった。

 教室に戻った生徒は、内山という女の先生から「ワーガヒノモトハシマグニヨ……」(わが日の本は島国よ)と、繰り返し練習させられた。それは数日前、新港埠頭の開港五十年祭で発表された『横浜市歌』だったが、当時作家よりも学者、軍医として有名だった森鷗外の作詞(南能衛作曲)になるということなど、威馬雄少年にはどうでもよいことだった。さっそく流行りだした替え歌を、わんぱく盛りの仲間と合唱した。「今は百舟百千舟、泊る處ぞ見よや、果なく榮えて行くらん御代を」という個所を「今は桃食って腹下し、とまるところを見よや、はてなくおならがにおうみよを……」
 
 以上は平野の回想(「横浜市歌誕生のころ」『横浜今昔』)に拠ったもので、当時の風俗までが活写されているが、思い出はこのような牧歌調のものばかりではなかった。

父親は国際的な名士
 平野威馬雄は、明治三十三年(一九〇〇)五月五日、初代日米協会長をつとめたフランス系アメリカ人ヘンリー・パイク・ブイを父とし、横浜生まれの平野駒子を母として、東京青山に生まれた。父ブイの先祖はスコットランドの貴族だったが、当人はケンブリッジの法科を出ながら芸術家肌の性格で、パリに出て作曲とヴァイオリン奏法を学んだ。宮廷の招宴で『昆虫記』のアンリ・ファーブルと知り合い、南仏の住居を訪ねたということもあるという。肝心の法律家としても力量を発揮、アメリカに渡って弁護士となったが、いい加減財を成した三十歳で足を洗い、以後美術史の世界に沈潜した。

 このような経緯から、当時の浮世絵ブームにも影響を受けし、極東の島国に関心を抱くようになり、明治二十六年(一八九三)年に初来日した。その印象がよかったのか、あるいは実兄が山手に居住していた気安さもあってか、三年後に再来日した。そのとき元町薬師(増徳院、現在は地福寺)の縁日に出かけたところ、たまたま鳥居清長の絵を抜け出したような美人とすれちがい、文字通り一目惚れしてしまったのである。

 出入りの象牙細工師に調べてもらうと、界隈でも評判の女性で、父親平野伊左衛門は旧幕時代に石川家(横浜村の元名主・代官)の家来だったが、剣術柔道ともに免許皆伝の武士だったという。維新後は居留地アメリカ三番屋敷のお茶場(輸出用の製茶加工場)で倉番頭をつとめているとわかった。

 ブイが駒子を正式に娶るまでには、かなり紆余曲折があったが、結婚直後は順調で、ほどなく男子が誕生した。父親の雅号「武威」と母親の「駒」にちなんで威馬雄と命名したのは、和歌の師匠と仰いだ国学者福羽美静[ルビ、ふくばよししず]だった。

 しかし、父親はわが子の誕生後まもなく帰米することになり、明治三十四年(一九〇一)「十二分の送金」を約束し、「生まれた子の桃色の頬にキッスをのこして、水平線のむこうに消えた」(『平野威馬雄二十世紀』)。以来、、港に汽船が入るたびに、子ども部屋には入り切らないほどの玩具が届けられたが、父親は結果として五年後に一度、九年後に一度しか帰ってこなかった。威馬雄少年が「おとうさんは、なぜ早く帰ってこないの?」と問うと、山田流箏曲の女師匠として生活を立てていた母親は「ほんとに、なぜでしょうね……」と当惑顔で返事をするのが精一杯だった。

 時には「かわいいレミさん」という書き出しの手紙が来た。母から、レミとはエクトール=マロー原作『家なき子』の主人公の名だと教えられたが。何の慰めにもならなかった。当時、父親はカリフォルニア州サンマテオの別荘に居住し、日本から植木職人を呼び寄せて庭園をつくらせていたが、その職人たちが帰国して「アメリカの旦那さまには、ひとかたならぬお世話になりました」と挨拶に訪れた際にも、威馬雄少年としては「そんなにのびのびと暮らしながら、なぜぼくたちを呼び寄せてくれないのか」と不満を募らせるしかなかった。
 
差別への反攻
 母は父が送ってくる指輪やネックレスを、絶対に身につけようとしなかった。らしゃめん≠ニいわれることを極度におそれていたからである。しかし、わが子の顔立ちが外国人風なことは、隠しようがなかった。明治末期の横浜の混血児は「あいのこ人」もしくは「のこ」などと呼ばれ、いじめや差別を受けた。家で仲良くしようと、玩具やお菓子でもてなそうとしても、「平野のとこへ遊びに行く奴は、いやしん坊だ」などと風評を立てられる。ついには家に大きな石が投げ込まれたり、窓ガラスが割られたりした。

 威馬雄が夏よりも冬が好きになったのは、マフラーなどで高い鼻を隠蔽することができるからだった。ある夕刻、威馬雄が寂しさのあまり、横浜ドックから代える少年労働者を見送っていたところ、その一人が「おい! あいのこ坊や、かあいいな」と近づいてきたと思う間もなく、いきなり威馬雄の左手の親指と人さし指の間に千枚通しを突きたてた。激痛に悲鳴をあげる威馬雄。相手はクルリと尻をからげると、すたこら逃げてしまった。さいわい付近の人に助けられたが、この事件はいつまでもトラウマとして残った。

 学齢に達し、老松小学校に入学して間もなく、うれしや父親が帰日した。いまや日本では有名人となっていたので、横浜港の桟橋は人の波だった。大きな汽船のタラップを、ヴァイオリンのケースをかかえながら降りてきたのは、恰幅のよい赤ら顔の紳士だった。

「ほら、お父さんだよ……」と母にいわれて、威馬雄は歓迎の人波の遙か後方から駈け出そうとしたが、母は威馬雄の手を固く握りしめた。「もう少しお待ち……」

 どやどやと取り囲む名士たちの頭上に、父は両手を高く差しあげながら、歳には不似合いなほどの玲瓏なテノールで叫んだ。「イマオ! イマオ! イマオはいますか?」

 後に威馬雄は回想録に記している。「父の眼は、儀礼的な出迎えの渦をわけ、一直線に、ぼくの眼に食い入った。われて、さけて、こぼれて、つぶれてしまうかとおもえる微笑みだった。ぼくは、とたんにくいつくように泣き出した」(『混血人生記』)。

 それからの二年間が、生涯で最も幸福な時期であった。父は麹町区(現、千代田区)に家を建て、威馬雄を混血児の多い暁星小学校の寄宿生として転向させた。家にいるときは、父から聞かされるスコットランドの祖先の話、フランスの宮廷人や芸術家との交流の話、ファーブルの住まいを訪問し、自然の神秘について語り合った話などが、小学一、二年生でしかない威馬雄にも感銘与えると同時に、自らの出自に誇りを持つことにつながった。

 このころを境に、威馬雄は差別的な周囲の目を逃がれるよりも、逆にこちらから相手を侮辱すような攻撃性を示すようになる。近所の道場に通って、柔道を習いはじめた。腕力では敵わない愚連隊には、罵声を浴びせておいて逃げる。これによって、足の早さでは誰にも負けず、運動会で優勝のトロフィーを獲得するまでになった。("Best Partner"2013年2月号)