○寄稿再録

2017年09月12日

 平野威馬雄 小伝 (2)
最初期の熊楠伝として、再評価

最初期の熊楠伝として、再評価
新進文学者として出発
 しかし、このような時代は、まだ余裕があった。大正三年(一九一四)第一次大戦の勃発に先だって、学校に配属されてきた軍人から、きびしい教練(銃剣述)が施されるようになった。銃の手入れが悪いという理由で、クラスの全員が数十回も往復ビンタを食わされたこともあるが、この軍人から「おまえは混血児だから、戦争になったら信用できないぞ。今日から銃剣術はやらんでもいい。見学だけ許す」といわれたときには、非常に複雑な気持ちになった。さらにフランス人の校長に引率されて国の行事に加わる際、万歳を叫ぶたびに、いったい自分の祖国はどこにあるのかという疑問に悩まされるようになった。

 間もなく同校の中学部に進んだが、教育方針は厳格なカトリック式で、混血児のデリケートな悩みにこたえるようなものではなかった。威馬雄は上級生になるほど反抗的になり、ついに祝日のミサで頂点に達した。司祭のおごそかな祈祷の真っ最中、冒瀆的かつ卑猥な仕草を演じたため、あっけなく放校処分となってしまったのである。

 都内の中学に転校先が見つからず、ちょうど葉山の別荘に近いということで、逗子の開成中学へと移った。ここでは陸上の選手に仕立てられ、応援歌の作詞を命じられるなど、一見順調に見えたが、差別はついてまわった。生徒たちにしてみれば、混血児を応援しなればならないのが許せなかったのだろう。あるとき、相撲部の生徒数人から逗子海岸に呼び出されたが、「身のほどを知れ!」と次々に襲いかかってくる相手を柔道で投げとばしているうちに、一人の目玉を突いて、失明させてしまった。

 現代では考えられないことだが、学校側は何もいわず、相手の生徒も「すまないのはぼくだよ」といって謝罪し、在学中親友のように交わり続けた。三十数年後にたまたま再開した相手は伊東で旅館を経営し、「片目を失ったことで、深く後悔もしたし、かえって心が広々とし、人柄も変わった。兵役も免除となり、社会的にも成功した。きみはぼくの恩人だ」と逆に感謝された。平野は「混血児がこうして人の心に、生き生きとして生き続けていることを思うと、孤独ではないぞ……と、しみじみ、心温められる思いがした」(前掲書)と、感慨深げに記している。
 開成中学時代のもう一つの収穫は、数少ない友人の一人加藤鐐造(後の社会党創立者の一人)に励まされ、日ごろ愛読していたパッサンの「野蛮な母」という短編を試訳し、自信をえたことである。もっとも、平野は当初詩人で生活できないかと考えていたが、ちょうどそのころアメリカから九年ぶりで帰日した父親の知りあいで国際的な詩人の野口米次郎(ヨネ・ノグチ)から「詩人として生活するのは容易ではない」と忠告された。

 ただし野口は平野が詩作にかける思いを知って、近所に住む正富汪洋を紹介してくれた。当時詩壇の一勢力になっていた汪洋は、渋谷道玄坂上の書斎に若い詩人を集め、盛んに同人活動を行っていたが、まだ十八歳の平野に才能を見出し、出版記念会に誘ってくれた。その席上で佐藤惣之助や福士幸次郎らに所望され、原書の『ランボー詩集』を淀みなく朗読したところ、一座は大いに盛り上がり、すんなり仲間として受け入れられた。正富の編集する雑誌「新進詩人」にも、平野の作品が佐藤惣之助や日夏耿之介と並んで掲載された。

 芋づる式に、広津和郎や生田春月に紹介されたことも好運だった。その口添えで「野蛮な母」が新潮社の『モーパッサン選集』(一九二〇)に採用され、日本におけるモーパッサン紹介の先駆けとなることができた。たちまち文壇からは天才翻訳家=hという呼称を奉られ、同時期にベストセラー『地上』でデビューした一歳年長の天才作家=h島田清次郎と意気投合、神楽坂のしゃれたカフェ田原屋で祝杯をあげたのだった。
 
麻薬禍からの脱出
 これまでマイナスでしかなかった要素が、一挙に逆転し、才能として認められたことに平野は喜びと同時に戸惑いも感じた。文学の世界に差別はないということは実感できた。「すべては順調で、すべり出しはまぶしいほど明るかった」が、好事魔多しのたとえ通り、前途には思いがけない躓きの石が待ちかまえていた。

 大正十一年秋、平野は上智大学文学部に在学していたが、小学校時代の蓄膿手術の後遺症に悩まされていたところ、級友の一人からその兄(著名な文芸評論家)の用いているコカインの試用をすすめられた。軽い気持で吸ってみたところ、瞬時に不快な症状が消え去ったばかりか、頭脳も明晰になったように錯覚した。フランス語の原書を読む場合でも、以前学んだ文法や単語が何の苦もなく蘇り、辞書さえ不要に思えた。いわば「知的な羽化登仙」という境地にすっかり魅了され、以来麻薬の虜になってしまった。

 立ちくらみ、頻脈、不眠……お定まりの副作用に襲われ、薬物入手のカネ欲しさに知友から借金したり、書店で万引を繰り返したりした。これではいけないと、松沢病院に自首入院、はげしい禁断症状を克服して回復をとげたが、退院後間もなく逆戻りした。平野は大学卒業の年に妻帯していたが、このような状況の中で離婚し、退院後再婚している。二度目の妻も薬物から抜けられない夫に絶望し、いっそ自分の兄が経営する薬局に忍び込んでコカインを盗んだらどうかと示唆した。平野はいわれた通りに実行し、致死量に近い量を吸入して重態に陥ったが、これを契機として奇蹟的に立ち直ることができた。あとで妻から「私も子どもたちを連れて後を追うつもりだった」と聞かされた。

 前後十数年におよぶ悲惨な麻薬中毒時代は、平野の執筆生活に悪影響を及ぼしたが、詩への志だけは捨てることなく、回復後は東京三河島の自宅で詩人集団「宋の会」を創立し、活動をはじめた。同時にファーブル伝の白眉、ルグロの『ファブルの生涯』(一九四一)やトーマス・マン『ロッテ帰りぬ』(同)、アンドレ・モオロア『アラベスク』(一九四二)、メーテルリンク『蜜蜂の生活』(同)などの翻訳を、精力的に刊行しはじめた。

 しかし、再生の意気込みは詩作や翻訳にとどまらなかった。このころから戦中にかけての業績で、平野を知る者をおどろかせたのは『博物学者南方熊楠の生涯』(一九四四)という大著である。いまでこそ南方熊楠といえば日本で初めてエコロジーを唱えた生物学者、民俗学者として知らない者はないが、当時は一般に奇人先生として扱われ、著書も随筆集が刊行されているに過ぎなかった。昭和十七年(一九四二)に亡くなったばかりで、まだ伝記が出る段階ではなかったが、平野は熊楠の郷里である和歌山県田辺に出かけ、遺族や弟子筋の人々から談話や資料を得て、五百ページを超える浩瀚な評伝を完成したのである(ただし、熊楠に関する初の伝記としては、前年に中山太郎『学界の偉人南方熊楠』が出ている)。

 平野は学生時代の大正十一年、南方植物研究所の設立資金を集めるために上京中だった南方熊楠に、哲学者平沢哲雄の紹介で会ったことがある、平野は足の不自由な熊楠のために、日比谷公園の空濠で新種の粘菌の採集を手伝ったという。いずれにせよアカデミズムとは無縁な、世の権威や偏見と戦った人物を選んでいるところは、平野の生い立ちから考えれば当然といえよう。

戦後社会への貢献
 このように不遇の人物の伝記を手がけるという方向性を見出した平野だが、戦争が追い風になるとは思わなかった。昭和十六年(一九四一)日米開戦と同時に平野はいやな予感がした。それより二十一年も前に父親は他界していたが、まさか日米が戦うことになるとは夢にも思っていなかったに相違ない。

 平野は憲兵本部に拘引され、「混血児だから、スパイに相違ない」などと怒鳴られたり、脅されたりした。自宅に帰されても特高の監視役が押しかけてくるので、一計を案じた平野は書棚から江戸時代の国学者、大国隆正の『やまといも考』を採りだし、「本書は文部大臣や皇族が推薦している課外読物だから」と、サワリの弓削道鏡と女帝との一件を読んで聞かせた。窮乏生活の時期に軟文学を手がけたことが役立ったのである。特高は七面鳥のように、赤くなったり青くなったりしていたというが、終戦と同時にガラリと態度を変え、白米や砂糖を山のように玄関口に積み上げ、「先生のお口聞きで、米軍の手からわれわれを守ってください」と土下座したという。

 戦後の平野には思いがけない仕事が待っていた。特高と入れ替わりに訪れたのは警視庁の外事課と東京市内の待合の親方で、芸妓に英会話を教えるよう懇請、「日本中の女性を守るために、先生のご出馬をお願いしたい」というのである。平野はやむなく引き受けたが、一時は夜ごとに発生するトラブルの調停役までつとめなければならなかった。

 しかし、真の困惑はその後にやってきた。巷に混血児が目立つようになってきたのである。平野は真っ先にこの現象に気がつく立場にあった。占領の落とし子としての混血児は歓迎されざる存在のため、差別や虐待はいかばかりであろうか。平野は居ても立ってもいられず、藤原義江、江川宇礼雄、佐藤美子らと諮り、「一九五三年会」という混血児救済組織を発足させた。生い立ちに混血児としての苦悩を経験した四人が発起人となり、不仕合わせな子どもたちを世の偏見から守ろうというのである。

 反響はきわめて大きなものがあり、エリザベス・サンダース・ホームや各地の母親たちの組織などと連絡をとることができた。対応の遅れがちな行政にかわって、自宅で多数の混血児の面倒を見たり、七人の混血児を認知し、就学ができるようにした。このような経験をもとに、昭和三十四年(一九五九)に発表した児童文学『レミは生きている』は、混血児として耐えた半生の苦悩が内省的に描かれ、同年サンケイ児童出版文化賞を獲得、現在も平野の代表作として広く読まれ続けている。

 平野の著作は多方面にわたり、児童向けの伝記のほか、空飛ぶ円盤や妖怪などの超常現象の研究もある。迷信打破の目的から妖怪を研究した井上円了の生涯を跡づけた『伝円了』(一九七四)は、類書がない点でも貴重だが、なんといっても生涯こだわったのは詩で、『京都の詩情』『南蛮幻想』『懐かしの銀座』などの詩集をのこしているが、晩年の精進を示すのが『フランス象徴詩の研究』(一九七九)で、マラルメ、ヴェルレーヌ、ラフォルグら象徴派の詩を、独自の感性で体系的に分析した内容は高く評価されている。

 昭和六十一年(一九八六)十一月十一日、八十六歳で死去、横浜山手外国人墓地に葬られ、毎年五月五日の誕生日には墓前祭が営まれている。長女レミ(一九四七〜)はシャンソン歌手、料理研究家として活躍、イラストレーター和田誠夫人である。
  

■参考文献
平野威馬雄『博物学者南方熊楠の生涯』(牧書房、一九四四)、平野威馬雄『混血人生記』(日本出版協同株式会社、一九五四)、淵野修編『横浜今昔』(毎日新聞横浜支局、一九五七)、平野威馬雄『レミは生きている』(日本児童文学刊行会、一九五八)、平野威馬雄『くまくす外伝』(濤書房、一九六二)、平野威馬雄『京都の詩情』一−三(白川書院、一九六四〜六六)、平野威馬雄『伝円了』(草風社、一九六四)、平野威馬雄『癊(陰)者の告白』(話の特集、一九七六)、平野威馬雄『アウトロー半世紀』(話の特集、一九七八)、平野威馬雄『平野威馬雄二十世紀』(大和書房、一九八〇)、平野威馬雄『フランス象徴詩の研究』(思潮社、一九七九)