○寄稿再録

2017年09月19日

 谷崎潤一郎 小伝(1)
デビュー時の谷崎潤一郎

デビュー時の谷崎潤一郎
『谷崎潤一郎全集』決定版・全26巻(中央公論社)が完成した。
戦後同社からは五種類出ていると思うが、今回は書簡が収録されていないのが、惜しまれてならない。
 私も谷崎愛好では人後に落ちないつもりだが、いつか評伝をと思いつつ、機会を得なかった。以下に再録(分載)するのは五年前、浜銀綜合研究所の機関誌に掲載したもので、谷崎の横浜時代の業績と、続く関東大震災の深甚な影響について、紙数を費やしている。横浜時代が長く続けば、順一郎はまったく別の作家になっていたかもしれまい、というのが私の感想である。参考文献については、次回の末尾に記す。
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大正モダン転じて王朝物語へ
                耽美の作家が辿った愛の深淵
  
授業料滞納で帝大を退学
『細雪』や『春琴抄』などの名作で知られる谷崎潤一郎は、その作品の舞台や伝統的な美意識から見ても、関西の文人というイメージが強いが、 じつは東京の下町出身で、文壇デビューから程なくして神奈川県内の各地、とくに海外文化の色彩が強い横浜において、モダニズムの先端をいく生活を満喫し、それが後の作品にも色濃く投影しているのである。

 谷崎潤一郎(一八八六一〜一九六五)は、明治十九年七月二十四日、東京市日本橋区蛎殻町二丁目十四番地(現、中央区日本橋人形町一丁目七番地)の商家に生まれた。四歳下に英文学者で作家の弟精二がいる。父倉五郎は外神田の酒問屋から入った婿養子で、母親の関[ルビ、せき]はその界隈でも有数の美人として錦絵にとりあげられ、谷崎文学の基調の一つである母性恋慕の淵源となったほどである。

 祖父久右衛門は商才に長け、米穀取引や点灯社(瓦斯灯の点灯請負)などの新商売に乗り出し、米相場を報じる活版所が大当たりをとった。これに反して父親の倉五郎は商売に疎い性格で、祖父の授業を継承する能力に乏しく、潤一郎の出生後間もなく活版所は伯父の谷崎久兵衛に受け継がれた。

 潤一郎は下町の商家育ちだが、家業が活版を扱うので、早くから活字に関心を抱き、筆記の回覧雑誌などを出し、文学の道を歩み出したのだが、当時の商家は「商人の子どもには教育は不要」というのが常識だった。潤一郎も危うく学歴を小学校で終わりかけたが、周囲の援助で東京府立第一中学校(現、日比谷高校)に進学、さらに翌年父親の事業失敗で廃学を迫られた際にも、彼の文才を惜しんだ教師稲葉清吉の斡旋により、築地精養軒主人の北村氏の書生となり、辛うじて中学校にとどまることができた。

 以後は伯父の久兵衛や親友の笹沼源之助からの援助を受け、明治四十一年(一九〇八)二十二歳で第一高等学校英法科を卒業、東京帝国大学国文学科に入学した。ただちに『刺青』『麒麟』『少年』『幇間」など、早くも耽美的、悪魔主義的な傾向を全開にした作品を発表したが、反響は思わしいものではなかった。自然主義全盛時の文壇は、道徳や功利性を排した美の享受、創造を目ざす文学を認める余地に乏しかったのである。

 自らの才能に恃むところがあった谷崎も、さすがに失望と焦りから強度の神経衰弱となった。わずかに療養中、永井荷風の新作『あめりか物語』を読み、「自分の芸術上の血族」を感じて勇気づけられたものの、これでは勉学どころではなく、明治四十四年(一九一一)、ついに大学から授業料滞納の廉で退学を命じられてしまった。

名声をよそに放浪生活
 しかし、谷崎の作品に早くから関心を寄せていた人物がある。新人発掘に定評のあった「中央公論」の記者瀧田哲太郎(樗陰)である。ある日、彼は神田神保町の裏長屋に住んでいた谷崎を訪れ、新作の寄稿を依頼した。このとき玄関で応対したのは同居していた弟の精二だったが、「これで兄も有名になるかな」と思ったという。当の兄はそのとき朝寝をきめこんでいたが、まず一服ふかしてから顔を洗い、悠然と瀧田の前に現れた。

 瀧田の依頼で書いた『秘密』の評判はすばらしかった。市井のある寺に隠れ住んだ主人公が、古着屋で女の着物を手に入れたことから、夜になると女装して歓楽街に出没、劇場の貴賓席で隣り合った女性と身分をかくした恋愛遊戯に耽溺する。やがて破局が訪れるが、「私の心はだんだん『秘密』などと云う手ぬるい淡い快感に満足しなくなって、もっと色彩の濃い、血だらけな快楽を求めるように傾いて行った」

 この作品に反応を示したのが、永井荷風であった。「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。……第一は肉体的恐怖から生ずる神秘幽言である。肉体上の惨忍から反動的に味わい得らるる痛切なる快感である」(「三田文学」同年十一月号)

 谷崎はこの讃辞が掲載された雑誌を書店でもとめ、神保町の裏長屋に戻るまで、歩きながら何度も読み直した。両手は自分でもおかしいほどブルブル震えたという。「私を褒めちぎってある文字に行き当ると、俄に自分が九天の高さに登ったような気がした。往来の人間が急に小さく見えた」(『青春物語』一九三三)
 いまでいえば芥川賞を受賞した新人のようなもので、新聞雑誌からどっと原稿依頼が舞い込みはじめた。そのうち「大坂毎日新聞」の京阪見物記を書いて欲しいという依頼に応じたが、取材どころではなく、二ヶ月の滞在中に京都で茶屋酒に浸り、大借財を踏み倒して東京に逃げ帰るという武勇伝を演じてしまった。谷崎は元来一個所に定住できず、転々と居所を替える癖があったが、帰京後も腰が定まらず、京橋区の蒟蒻島(現、中央区新川一丁目)にある真鶴館という旅館に止泊し、仕事を続けた。

 この宿は祖父の久右衛門が二番目の娘が嫁ぐさいに持参金がわりとして与えたもので、お須賀という美貌で伝法肌の女将が采配をふるっていた。潤一郎の従兄江尻雄次の妻であったが、彼はこの女将とねんごろとなり、結果として真鶴館にはいられなくなり、本郷などの下宿を転々とした後、東京を脱出して小田原に近い早川の旅館に身を隠した。

 大正五年(一九一六)に発表の『熱風に吹かれて』に主人公の旧友の妻として描かれている「英子」という女性は、お須賀をモデルにしたものとされる。「束髪に結った耳朶の後ろの生え際などは、人を戦慄させる程真白なのに、肌理の細やかな、お白粉気のない顔の皮膚だけが微薫を帯びた如くぽっと薄紅に染まって居る」などという委曲を尽くした描写には、谷崎の濃厚な思い入れが感じられよう。
 
心機一転、小田原への移転
 この出来事には、既成道徳に反逆する作家としての生き方が投影されているが、現実問題として不快な記憶が伴ったらしく、人に触れられることを嫌った。当時の谷崎にはどこか「死」を意識した気配が窺われるという指摘もある(野村尚吾『伝記谷崎潤一郎』)。

 しかし、谷崎の内面には心機一転を促す声もあったのか、翌大正四年(一九一五)五月、前橋生まれで九歳年下の石川千代と結婚した。千代は育ての祖母が寄留宿(芸者家)を開業していたため、一時芸者をしていたが、谷崎との結婚の直前に廃業、お初という長姉の経営する向島の「嬉野」という料理屋に身を寄せていた。もともと谷崎は、雌伏時代からこの料理屋と馴染みだった。陽気で男勝りのお初と気が合ったからである。

 お初の紹介で妹の千代を知ったわけだが、この結婚は谷崎を満足させなかった。千代が姉とは打って変わって、平凡な世話女房タイプにすぎなかったからだ。そのうちに長女鮎子が誕生し、一時は平凡な家庭生活をめざしたものの、折から母親が他界したのをいい機に、妻子を生家に預け、自分は実質的な独身生活に戻ってしまった。

 谷崎が妻を遠ざけた理由は、千代の六歳下の美しい義妹せい子が視野に入ってきたからでもある。目の大きな西洋風の顔立ち、十四歳とは思えない均整のとれた肢体だった。谷崎は、おそらく一人の少女を自分の好みのままに開花させてみたいという欲求に抗しきれなくなったのだろう。せい子を同居させ、谷崎家で育てる方向にもっていった。妻とは離婚も辞せずという心境だった。同時期の探偵小説風の『呪われた戯曲』(一九一九)『途上』(一九二〇)などに、妻殺しのモチーフが見られるのは偶然ではあるまい。

 谷崎が心機一転、北原白秋のすすめにより、一家をあげて小田原の別荘地である十字町三丁目(現、南町二丁目)に移転したのは、大正八年(一九一九)十二月であった。腺病質の鮎子の転地療養が理由である。当時の小田原はまだ駅がない、不便な場所であったが、作品の中では「全体、その町は南に海を控え、北から西にかけては高い山を繞らした屏風の蔭に包まれて居て、冬の間も冷めたい風が吹くような日は一日もなく、しっとりとした、神経を鎮めるような閑静さがあって、それが大へん私の気に入って居たのでした」(『鶴涙』一九二一)などと記している。

 ちょうどそのころ、東洋汽船の浅野総一郎の息子良三が映画(当時は活動写真)の製作会社「大正活映株式会社」を設立、監督にアメリカで俳風をしていた栗原トーマス(喜三郎)が選ばれたが、さて脚本を誰に依頼しようかという話になった。坪内逍遙の文芸協会に属する新劇俳優上山草人に相談を持ちかけたところ、谷崎に白羽の矢を立てた。

 上山は後にハリウッドで東洋人の役柄で成功するが、大正時代には二歳年下の谷崎と非常に親しかった。「演劇や絵画が永久に滅びざるが如く、活動写真も亦、不朽に伝わるであろうと信ずる」(「活動写真の現在と将来」)という意見をもっていた谷崎は快諾し、週に一度の出社、月給二百五十円(一説に三百五十円)という条件で出勤することとなった。
 
映画人谷崎潤一郎の誕生
 大活は横浜市中区の元町一丁目、現在の元町公園プールの辺りにあった。横浜は洋画を最も早く封切るオデオン座の存在によって、ファンの間ではメッカとされていた。ちなみに谷崎が前述の文章を記した大正六年に輸入された洋画は約八百七十本、邦画は約二百六十本だが、そのほとんどはチャップリンの短編、連続活劇、邦画はチャンバラや人情劇である。谷崎はおそらく浅草で活動写真に親しんでいたのだろうが、当時の文士として、その将来性への見識は非常に高いものだったといえる。

 週一回ということだったが、谷崎は応募俳優の審査から撮影にも関与したため、毎日のように小田原から通い詰めた。主役女優としてはせい子を推薦、葉山三千子という芸名をつけた。第一回の作品は『アマチュア倶楽部』というコメディーときまった。現在残されている撮影用台本からは、鎌倉由比ヶ浜に避暑中の青年たちが、暇をもてあまして園芸会を催すことから生じた大騒ぎを、ドタバタ喜劇風に描いたものである。葉山三千子の役は別荘に滞在するおてんば娘で、青年たちにからかわれたり、たまたま侵入してきた泥棒を、虫干し中の鎧兜を着込んだまま追跡するといった他愛ない役だったが、当時の観客にとっては外国映画を真似た水着姿のグラマーぶりが驚異であった。

 幼稚な筋は別として、テンポの早い場面処理をはじめ、オールロケによる海浜風俗などが評判を呼び、予想以上の興収をもたらした。勢いに乗った第二作は、がらりと変わって泉鏡花原作の下町悲劇『葛飾砂子』を谷崎の脚本で撮影したが、その叙情的な描写は当時十一歳の淀川長治を感激させた。

「ファーストシーン。深川の川の大写。向こうに船をこぐ、小さく見える船。ついで近写、船をこぐ船頭、その船頭の目から見る川の岸辺、右から左へ、その岸にふと目にしみる、ななめにかたむいた水のくいに文字のあと……無縁仏……南無妙法蓮華経、文字もかすれて」(淀川長治『ぼくの映画百物語』一九九九)

 このように日本で初めて映画の文法を駆使した作品が製作され、後の監督内田叶夢、俳優岡田時彦(本名高橋英一)、紅沢葉子、江川宇礼男らが送り出されたが、谷崎はその後幻想的な『雛祭の夜』、怪談『蛇性の淫』(上田秋成原作)などを手がけただけで大活から退いた。会社の方針が、一般的なドキュメンタリー制作に変更になったためである。

 ちなみに、岡田時彦という芸名を考えたのは谷崎である。撮影中、岡田はせい子にアプローチしながら、彼女を扱い兼ねてか、十三年後に宝塚出身女優と結ばれた。一子鞠子は後の岡田茉莉子である。せい子はその後十数本の映画に出演し、谷崎家の書生と結婚したが長続きせず、関西で和嶋彬夫という、のちに日仏協会理事となった人物と結ばれた。