○寄稿再録

2017年09月23日

 谷崎潤一郎小伝 (2)
葉山三千子

葉山三千子
佐藤春夫に妻を譲渡
 谷崎は映画の将来性に着目、一定の功績をのこし、これ以後も自作の映画化に積極的であったという意味で、安部公房を除けば日本の文学者として類のない存在だが、とかくその功績が忘れられがちなのは、同時期に起こした「小田原事件」の方が、文壇史上はるかに大きなウェイトをもっているからだろう。

 妻を疎んじる気持が昂じた谷崎は、六歳年下の友人佐藤春夫に妻を譲り、自分はせい子と結婚しようという、ムシのいい考えを抱いた。谷崎は上山草人の家で佐藤に紹介されたときから、詩人としての才能に着目していた。佐藤もまた谷崎とは相性がよかったので、しばしば谷崎家に出入りするようになったが、千代夫人がひどい扱いを受けていることに気づくまでに時間はかからず、同情は愛に変わっていった。

 これに気づいた谷崎は、佐藤に妻と義妹にからむ複雑な事情を告白した上、前述の提案を行った。当時佐藤は初婚に敗れ、同棲中の女優とも不和に悩んでいたので、ためらうことなく谷崎の提案を受諾した。谷崎は「君、もらってくれるか」と涙ぐんだという。
 佐藤に求婚された千代夫人の心境は、まさに青天の霹靂であったろう。しかし、結婚以来一日として真の幸福を味わったことがなく、生まれてはじめて男性への恋を自覚したと彼女が、にわかに別人のように生き生きとし、華やいできたというのも無理もない。

 ところが、土壇場になって谷崎は前言を翻し、夫人を手放したくないといい出したのである。いざとなると惜しくなったためというが、周囲の友人の推測では、谷崎がせい子にあらためて結婚を申し込んだところ、不調に終わったためではないかという。
 佐藤は「ひとをばかにしている」と激怒し、谷崎と絶交したが、千代夫人への思慕は拭い去ることができず、悶々たる心情を詩に託して公にした。『秋刀魚の唄』は、『侘しすぎる』『剪られた花』などの絶唱とともに当時の失恋をうたったものである。「あはれ/秋風よ/情あらば伝へてよ/――男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食らひて/思ひにふける と。」

 佐藤はその数年後、小川タミと結婚をして谷崎との交友を復活するが、昭和五年(一九三〇)離婚し、谷崎夫妻と話しあった結果、ようやく千代夫人を譲りうけることになり、三人連名の挨拶状を出した。この一連の出来事は「細君譲渡事件」として、当時の社会から批判を浴びた。千代と離婚後の谷崎は直ちに再婚したが、昭和九年(一九三四)に根津松子と再々婚した。

耽美的な女性像を追求
 少しく遡って、佐藤と絶交した大正十年(一九二一)、谷崎はまだ映画に関わっていたので、横浜の本牧宮原の海浜、チャブ屋の隣に居をかまえ、ついで山手の外国人住宅を借りて、それぞれ洋風のモダンな環境を満喫、せい子も自由に振る舞った。三十五歳で『潤一郎傑作全集』全三巻を出し、翌年は帝国劇場で自作『お国と五平』の演出を行っている。

 この時代を背景とした作品として『肉塊』『港の人々』『本牧夜話』などがあり、映画に関わる人物や、大正中期の本牧・元町の情景が鮮やかに描かれている。このままでいけば、谷崎は横浜に永住する可能性もあったが、それを一変させたのが関東大震災であった。

 大正十二(一九二三)九月一日、箱根の山中を走るバスの中にいた谷崎は、運転手の機転で危うくで難を免れた。東京横浜は壊滅と聞き、関西の知人を頼って転々としたあげく、そのまま移住という形になり、一生元には戻らなかった。関西時代の谷崎は、京都を中心とする伝統文化と美意識の再発見を通じて、作品世界を深めていくが、その前に前期の総決算ともいうべき作品を二つ発表している。


 その一つ『痴人の愛』は、大正十三年(一九二四)三月から「大阪朝日新聞」に連載、途中新聞社側の意向で打ち切られ、後編が雑誌「女性」に連載された。主人公の若い技師がカフェで知り合ったナオミという十五歳の少女を大森の洋館に引き取り、理想の妻へと調教しようとするが、無邪気な外貌に似合わない淫奔な性格とわかり、一度は追放するが、寂寥に耐えきれずに関係を戻す。

 やがてナオミの魅力に全面降伏し、会社からも退職し、田舎の財産を売却した金で横浜に彼女の希望通りの洋館を手に入れ、美神に仕える信徒のような存在と化す。「彼女の浮気と我が儘とは昔から分っていたことで、その欠点を取ってしまえば彼女の値打ちもなくなってしまう。浮気な奴だ、我が儘な奴だと思えば思うほど、一層可愛さが増して来て、彼女の罠に陥ってしまう」

 当時の醇風美俗≠ノ反するマゾヒズムと女性拝跪のモチーフは、谷崎の追求してきた耽美的、悪魔主義的な女性像と一体化し、「ナオミズム」の新語を生み出したが、それは谷崎自身の体験に裏打ちされていただけに、第二次大戦後の社会的変化を先取りする文学的リアリティーを備えていた。せい子との交渉は、無駄ではなかったのである。

 もう一つの『蓼喰ふ虫』(一九二八)は、結婚後十年、夫婦仲が冷え切った仮面夫婦を主人公としているる。じつは性的不調和が原因で、たがいに了解の上、妻は恋人と交際、夫は売笑婦のもとに通っているのだが、子どもの手前もあり、仮面夫婦として表面上はいたわりあいながら、別れる時期を探っている……。関西移住後五年目の作品で、自らの生々しい体験を織り込みながら、人物や背景を上方風に一変させている。

晩年も尽きなかった創作意欲
 以後の谷崎は、自己の官能的世界を古典的な技法と陰翳のある文章により深化する方向に進み、戦国を背景にした被虐性的変態性慾の飽くなき探求『武州公秘話』(一九三一)、老舗商家の男女関係の中に被虐的な美学を見出した『春琴抄』(一九三三)、吉野を舞台に母恋の心情を追った『吉野葛』(一九三一)ほか、幾多の作品を生み出した。臨戦体制下から戦時中にかけては、船場の四姉妹の日常生活の中に滅びゆく伝統文化を浮き彫りにした『細雪』を、軍部の圧力下に執念で書き続け、ようやく昭和二十三年(一九四八)に公刊、谷崎文学の頂点と評された。

 このほか、日本的な美の本質「幽玄」を上方文化の視点から解明したエッセイ『陰翳礼賛』(一九三三)や、老大納言国経の北の方を左大臣藤原時平が奪取したという史実を題材に、彼女をめぐる男の運命を描く『少将滋幹の母』(一九四九)、昭和十年(一九三五)から八年がかりで完成させた現代語訳『源氏物語』なども逸することはできない。昭和二十四年(一九四九)文化勲章を受章、海外からの評価も高い。晩年は『鍵』(一九五六)や『瘋癲老人日記』(一九六一)により、男女の性的闘争をモチーフとする作風に回帰し、世間を驚かせた。

 昭和四十年(一九六五)七月三十日、湯河原の自宅で心不全を発し、七十九歳で世を去ったが、その後も谷崎文学への人気はいささかも衰えることなく、没後三十八年目に晩年の執筆活動を助けた義理の娘(戸籍上の姪)渡辺千萬子との交流を示す往復書簡も公表され、あらためて谷崎作品と女性との関わりを認識させるなど、尽きせぬ話題を提供している。
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主要参考文献
 江藤淳「谷崎の故郷」『谷崎潤一郎全集』月報9(中央公論社、一九六七)、野村尚吾『伝記谷崎潤一郎』(六興出版、一九七四)、和田芳恵『おもかげの人々』(光風社書店、一九七八)、野村尚吾『谷崎潤一郎 風土と文学』(中央公論社、一九七三)、(六興出版、一九七四)、紅野敏郎・千葉俊二『資料谷崎潤一郎』(桜楓社、一九八〇)、田中純一郎『日本映画発達史T』(中央公論社、一九八〇)、『新潮文学アルバム 谷崎潤一郎』(新潮社、一九八五)、瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに 妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤』(中央公論社、一九九四)、千葉俊二遍『潤一郎ラビリンスⅪ 銀幕の彼方』(中公文庫、一九九九)、谷崎潤一郎・渡辺千萬子『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論社、二〇〇一)、佐藤忠男「谷崎潤一郎と映画(横浜) 」「國文学解釈と鑑賞」(至文堂、二〇〇一)、小谷野敦『谷崎潤一郎伝』(中央公論社、二〇〇六)