○寄稿再録

2017年09月29日

 山本周五郎 小伝(1)
神奈川近代文学館

神奈川近代文学館
 神奈川近代文学館において「没後五十年 山本周五郎展」が開催されている。私は三十代のころ、講談社版全集で時代小説のほとんどを熱中して読み、大きな感動を覚えた。その後しばらく遠ざかっていたが、五年前に浜銀綜合研究所の機関誌に横浜と縁の深い作家の評伝を連載する機会があり、周五郎をとりあげることができた。媒体や紙数の関係から作家論とは成りにくかったが、私が周五郎文学の何に感動したかという大切な部分は、わかってもらえると思っている。
-------------------------------------------------------

  質屋の土蔵こそ人生の大学
  意地と反骨に徹した作家遍歴
    山本周五郎

飢餓線上の母と子
 山本周五郎は明治三十六年(一九〇三)六月二十二日、山梨県北都留郡初狩村(現、大月市初狩)に生まれた。本名、清水三十六(さとむ)。父逸太郎、母とくの長男である。

 清水家の祖先は武田の遺臣とされているが、祖父の代までにすっかり家産を失い、父親の代には甲州石の採石場で知られる初狩村に移り、馬喰や繭の仲買などを生業としていた。母とくは同県龍王町の出身で、初狩の資産家の経営する機工場で働いているうちに逸太郎と相知り、身ごもったが、逸太郎の祖父に結婚を阻まれ、やむなく伯母の家の物置で出産しなければならなかった。

 祖父は孫の顔を見ると可愛くなり、母とくの入籍を認めた。ところが三十六がまだ四歳のとき、家屋が長雨による鉄砲水で倒壊、この祖父をはじめ祖母、叔父叔母までがこぞって犠牲となってしまった。折悪しく父親は金が目当ての女に欺され、東京に出奔したまま、葬式にも戻ってこない。やむなく母親はわが子を伴って東京に出るほかはなかった。

 探し当てた父親は北豊島郡王子町(現、北区王子町)に逼塞していたが、追ってきた妻子にいい顔をするはずはなく、雀の涙ほどの生活費しか渡さず、ときには飢餓線上に放置した。三度の飯も一汁一菜だった。後年周五郎は「間違って貰ってはこまる。一汁か、一菜だった」と回想している。

 それでも三十六は学齢に達し、近所の小学校に入学したのだが、またまた家が荒川の氾濫で流され、横浜市西区久保町に移転を余儀なくされると、父親はどこで借金したのか、生糸の仲買をはじめた。しかし、小才は利くが商才がなく、真田ひもの巻き取りや小料理屋、三業組合の書記など、いずれも長続きしなかった。

 三十六は住まいの近くの戸部小学校に入り、さらに学区の変更で西前小学校に転向させられた。どちらかといえば植物図鑑を携えて野原を歩きまわったり、貸本を読みふける孤独な少年だったが、作文が上手だったので、担任の水野実先生から「君は小説家になれ」といわれたり、学校新聞を任されたりしたことが大きな励みとなった。

 六年生のときには手書きの同人誌に「曠野の落日」という習作を発表し、老成した内容に級友たちを驚かせた。その友人の一人桃井達雄とは読書を通じて親しみ、よく家を訪ねたが、じつはその美しい姉の「じゅん」に淡い恋心を抱いていたようだ。

 父親は口を開くたびに「武士の子孫として恥ずかしくないように生きろ」と訓戒を垂れたが、我が子が当時「神中」の通称で知られていた神奈川県立横浜第一中学校(現、県立希望ヶ丘高等学校)に憧れていると知るや、猫なで声でいった。「三十六、学校もいいが、どうだ、ここらで一つ人生の実修業をやってみるのもいいことではないか。幸い、東京の木挽町に、名の知られた質店がある」(水谷昭夫『山本周五郎の生涯』)

人生の大学で知った初恋
 三十六が、中学の制服のかわりに角帯姿となって、木挽町(現、銀座五丁目辺)の質店「きねや」の帳場にすわったのは、大正五年(一九一六)、十三歳のときであった。間もなく少年は、父親が給金の前借をしたことを知る。つまり、売り飛ばされたのである。四十二年後に発表された『赤ひげ診療譚』(一九五八)に、登場人物のつぎのようにいわせている。

「よく聞け、犬畜生でさえ、仔を守るためには親は命を惜しまないものだ、自分は食わなくともまず仔に食わせる、けものでも親はそういうものだ。きさまは犬畜生にも劣るやつだぞ」

 後年「一学期だけ中学校へ通った」と回想していたが、「実際には、ひそかに受けて合格したものの、通わなかったのでしょう」(小宮山量平)という推測もある、藪入のさいに角帯姿で親友村田汎愛の家を訪ねたが、顔を出した家人からジロジロ見られた。その怪人は奥に向かい「汎愛、おまえには受験勉強があるだろう」といったというのである。

 質店での人生修行は、しかし、悪いことばかりではなかった。店主は名を山本周五郎といった。その界隈にチェーン店を経営し、店員には温情主義で、さらに文芸趣味があり、洒落斎と称して創作を試みるほどだったので(次男は後に作家・劇作家となった池谷信三郎である)、たちまち三十六の将来性を見抜き、希望通りに正則英語学校(現、正則学園高等学校)や大原簿記学校(現、学校法人大原学園)などの夜学に通うことを許した。

 仕事がひまな時には、読書に励んだ。折しも漱石が没し、白樺派が台頭した時期であったが、ろうそく一本の灯を頼りに読んだ本は主に海外の小説だった。「万朝報」の懸賞小説に応募した『南桑川村』が佳作に入ったのは十六歳のときだった。質店の徒弟仲間(のちに写真家となった秋山青磁を含む)が集まって手書きの文芸同人誌を出した際には、清水逸平の筆名で『曠野の落日』という恋愛小説を載せている。

 江戸時代に芝居小屋が建ち並んでいた木挽町だが、明治末期になっても中心部の賑橋にはまだ人通りも多く、その付近にあった質店の暖簾をくぐる客は絶えることがなかった。主人は三十六に、そのような客の実態を見抜くコツを伝授すると同時に、人目をはばかる客に対し、常に裏木戸を開けておけと命じた。まさに「きねや」こそは、少年にとって人生の大学であり、主人の周五郎は実の父親以上の存在であった。

 もう一つふれておかなくてはならないのは、主人の一人娘志津の存在である。五歳年下の明朗闊達な性格で、父親と同じく使用人に分け隔てのないところに、三十六は次第に惹かれていったのだが、その彼女は大正十年(一九二一)の十月、急性盲腸炎のため女学校五年生の若さで逝ってしまったのである。臨終の際、枕元に周五郎を呼んだ彼女は、「わたしののぞみは一つしきゃないの」と大粒の涙をこぼしたという。

 志津子の面影はいろいろな作品に揺曳しているが、その一つ『むかしもいまも』(一九四九)には、兄妹のようにむつまじい幼なじみが、夕暮れの中、近所の原っぱで遊びたわむれるという、郷愁に満ちた〈恋人たちに原風景〉として、描きのこされている。
 
翻弄された二十歳の文学青年
 周五郎が複雑な青春時代の最後に直面したのが、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災で、店は類焼し、休業を余儀なくされた。三十六は店主から若干の資金をもらい、前述の友人桃井達雄と神戸に逃れ、元町にあった「夜の神戸」という観光ガイドを兼ねた風俗誌の記者として糊口をしのぎ、結局五ヶ月後に東京に舞い戻ったのだが、その五ヶ月間に思いがけないことが起こった。

 彼が震災の避難先として神戸をめざした最大の理由は、桃井のじゅんが市内に嫁いでいたためと推測される。商船会社の社員と結婚した彼女は木村姓となり、須磨区離宮前で長男を育てていた。ちょうど夫はアメリカ支店に出張中だったが、彼女は着の身着のままで逃れてきた弟とその親友を何くれとなく世話を焼き、たまには気晴らしにと、六甲山や付近の名所で源平伝説の地、須磨寺の案内も企てた。同じ屋根の下、二十歳になったばかりの青年は、たちまちこの「強い瞳」や「婉めいた」しぐさを示す人妻に魅了されてしまう。

 恋愛心理を独自の角度から描いた小説『須磨寺付近』は、三年後の「文藝春秋」に掲載され、事実上文壇登場の第一作となったのだが、そのとき初めて「山本周五郎」と名乗った。恩人の名を筆名とすることで、文壇に打って出る意気込みを示したとされる。事実、この小説は後年の山本周五郎の主題が大胆に提示されていて、独特な感銘を与えられる。好例は、夜間須磨の浦を散策する場面での女性(康子という名になっている)の唐突な問いかけである。

  「清水さん」
  康子は傘を拡げようとしながら清三の顔を見て云った。
  「あなた、生きている目的が分かりますか」
  「目的ですか」
  「生活の目的ではなく、生きている目的よ」
  康子は清三の返事を待つ容子もなく、さっと傘を拡いて雨
の中に歩み出た。

 彼女は六甲山で一行が道を迷ったさいにも、「道が分らないってことは興味があるじゃないの。そこに不安があるから」という意味のことをいう女性である。生活者の観点から見れば観念的な、とらえどころのない思想が、おそらく文学を志す前から「人は何で生きるか」という問題、や「生きると云うことの不安」といかに戦うかを考え詰めてきた周五郎にとっては、新鮮な刺激だったに相違ない。

 小説では短い抱擁と接吻の場面が用意されているが、現実には二人の仲は進展しなかったようだ。女性は夫のいるアメリカに去るのだが、周五郎が別れぎわに「もし山本周五郎という名の小説を見たら、私が出世したと思ってください」といったというエピソードは、すでに筆名を確定していたことと相まって、いささか心のたかぶりが感じられる。

 しかし、周五郎の作品当時の文壇は理解しなかった。「文藝春秋」の菊池寛は折から講演のために神戸に来ていたが、心血を注いだ草稿をたずさえて面会を求めてきた青年に対し、きわめて冷淡な態度をとったらしい。「ろくでもない」作品だが、何とかしてやってもいいぐらいのことを言ったのである」(水谷昭夫前掲書)。

 周五郎は傷ついたが、「文藝春秋」は檜舞台なので、腹の虫は抑えて掲載してもらったのだが、評論家からは「あたりまえのことを、あたりまえに書いただけ」(山内房吉)などと酷評される始末。文壇の主流からは無縁の、孤立した自分が見えただけだった。