○寄稿再録

2017年10月04日

 山本周五郎 小伝 (2)
蔵書を背にした山本周五郎

蔵書を背にした山本周五郎
妻の内助が不可欠
 純文学のジャンルでデビューに失敗した山本周五郎は、一時は怪しげな雑誌の編集者となったが、とうてい辛抱しきれず、以後二十年以上にわたり、昭和戦前の大衆雑誌、婦人雑誌、少年雑誌などに数百篇にのぼる読物を量産することで糊口をしのいだ。

 二十七歳で最初の妻「きよい」を迎えたのを契機に、神奈川県腰越に新居を構え、翌年東京都大森区馬込東(現、大田区東馬込)へと住居を移した。きよいは周五郎がそれ以前に肺疾患で入院ていたときの看護婦で、すでに婚約者があったが、文学や芸術、あるいは人生の理想を熱っぽく語る周五郎に惹かれ、求婚に応じたのである。この妻があるとき妻がふさぎ込んでいるので、周五郎が理由をたずねたところ、「わたしは大衆作家と結婚したのではありません」といわれ、一言もなかったという。

 このとき、周五郎は、ある場面を思い出していた。大正十五年(一九二六)十月、脳溢血で死亡した母親の葬儀で、彼は予想もしない光景を見たのである。通夜に散じた隣人たちが、身内が亡くなったかのように嘆き悲しんでいたのある。おどろいて理由を問うと、周五郎の母親から援助を受けることで、極貧の生活を凌いでいたのだという。

 周五郎は母親が道楽者の夫に尽くし抜きながら、自らは医者にかかることもできず、顔面蒼白になって苦痛に耐えているさまを、日常的に見てきた。いまその一生を貧窮に苦しみ通した母親が、それゆえにこそ、自分よりも一層貧に苦しむ人々に衣食を与え、何くれとなく世話をしていたことを知ったのである。現に形見分けとしたわずか二、三着の衣服は、継ぎはぎだらけであった。周五郎には大きな衝撃であった。

 それから九年後、父親が病没したさい、通夜の席上に現れた彼は、いきなり香典をわしづかみにすると、憤然とその場を立ち去った。居合わせた会葬者からは「親不孝者が……」と非難されたが、周五郎は内心に深く期するところがあった。

 機会は、ついに訪れた。開戦二年目の昭和十七年(一九四二)、「婦人倶楽部」六月号から依頼された『日本婦道記』は、武家の妻女を主人公としたシリーズで、彼はその第一話を『松の花』と名付けた。

 老境の日々を自藩の烈女伝『松の花』の校閲に打ち込んでいた紀州徳川家の年寄役(一千石)佐野藤右衛門は、妻のやす女が長らく癌を患い、息を引き取った際にも心乱されることもなかったが、ふと掛布団からはみ出していた妻の手を握った際、それがひどく荒れているのに不審の念を抱いた。一千石の武家の奥方が、下婢同様の手をしているわけがないからである。

 つづいて通夜に集まった家士や僕の女房たちが「胸を刺しとおすような響」で哭する様子を見て、彼の疑念はいよいよ募ったが、息子から「あの者どもは母上を、つねづね実の親のようにおしたい申しておりました」といわれ、自分が妻の表面しか知らなかったことに気づかされた。

 形見分けの時が来た。箪笥から亡き妻の衣裳を取り出した藤右衛門は、余りにも少なく、しかも継ぎだらけなのを見て、「これでは見苦しいと思うが、どうか」と躊躇した。
「頂戴つかまつります」といったのは、すえという気性の強い女中頭だった。彼女は次の間に控えている女房たちに向かい、静かにいった。

「ここにあるのが、紀州さま御老職、千石のお家の奥さまがお召しになったお品です。わたくしたちには分にすぎたくだされものをあそばしながら、御自分ではこのような品をお召しになっていたのです、……この色のさめたお召物をよく拝んで下さい。継のあたった、このお小袖をよく拝んでください」
体面維持に汲々とする武家の社会には、家妻の内助が不可欠である。佐野家も、他の武家も例外ではない。その必死の努力は地味ではあるが、烈女の派手な事績に勝るとも劣るまい。翻然と悟った藤右衛門は、新たな気持で『松の花』の校閲にかかるのだった――。

本牧の紺碧の海が見えた
『日本婦道記』は昭和十八年度の直木賞に推された。菊池寛は周五郎が受けるかどうか不安になり、選考委員の一人永井龍男に打診させた。果たして周五郎はニベもなく断り、昂然といった。「私はすでに多くの読者から賞をいただいております」

 終戦の年、四十二歳の周五郎は妻を失った。文字通り糟糠の妻であった。翌年に迎えた後妻の「きん」は、先妻の子ども二人とむずかしい夫の世話で、尋常ならざる苦労を強いられたが、一方、周五郎にとっては気心の通じ合える、よき伴侶であった。おかげで精神性一本鎗であった周五郎の女性像にも、そこはかとない丸みが出るようになった。

 新居は横浜市中区本牧元町で、そこからほど近い旅館「間門園」の離れを仕事場と定めたのは昭和二十三年(一九四八)春であった。二軒分の棟割長屋のような建物で、四畳半の和室には執筆用の机が置かれていた。好きなクラシック音楽を流して気分を転換し、その曲が創作のヒントとなることもあった。縁側からは四季の花で彩られた庭と、その向こうの紺碧の海が見渡せた。二十年後、この風景は石油タンクの林立により失われてしまう。

 しかし、その約二十年間は周五郎にとって、実りの季節であった。初期に多い中・短編には、江戸下町を舞台に恋人の裏切りや自然の暴威に苦しみつつ、愚直に生き抜く男女を描いた『柳橋物語』(一九四九)および前述の『むかしも今も』(同)、宮本武蔵の剣聖伝説に冷や水を浴びせた『よじょう』(一九五二)、、臆病侍が突拍子もない方法で上意討ちを果たす『ひとごろし』(一九六四)など、いずれも高い評価を得たものである。

 周五郎を代表する作品は、やはり短編連作集と長編にある。府の小石川養生所を舞台に、底辺の患者医療に献身する蘭方医のヒューマンな活躍を描く『赤ひげ診療譚』(一九五八)、一時居住していた漁村浦安(浦粕)の庶民を一流の観察眼でとらえた『青べか物語』(一九六〇)、路地裏を舞台に貧しい人々の夢と現実を描く『季節のない街』(一九六二)、正反対な性格の友に対する無償の友情を描く『さぶ』(一九六三)、フォスターの生涯をヒントに、浄瑠璃作家をめざす旗本出の芸能人の苦闘を描いた『虚空遍歴』(同)など、いずれをとっても代表作と呼ぶに不足はないものである。

中断した宗教的大作
 しかし、昭和二十九年(一九五四)から「日本経済新聞」に長期連載された『樅の木は残った』(一九五八)ほど、周五郎の全精魂が傾けられた作品はない。いわゆる伊達騒動において、定説では極悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)が、じつは幕府による藩取り潰し策に正面から立ち向かう忠臣だったとする新解釈が見所である。無私の行為の偉大さと、逆に空しさを凝視した構想は、独創的な手法とともに周五郎文学の到達点を物語る。

 周五郎は自分の構想を練るために、次作の趣向を編集者に語り聞かせ、相手が乗ってこないとみるや、「それはそれとして……」と話をそらしてしまうのだった。気の合わない、尊大な態度を取る編集者は出入り差し止めとする、気むずかしさがあった。

 まだ『樅の木』を書く前、ある懇意な編集者が原稿料を渡しながら「先月のやつは、つまらねえよ」といったところ、怒って「原稿料を返す」といい出し、受け取れないといわれるとその場で札束に火をつけて燃やしてしまったという(大河原英與『山本周五郎 最後の日』)。こんなところから「曲軒」というアダ名がついた。

 晩年の大作『ながい坂』(一九六五)は、六十二歳のときの作品である。徒(ルビ、かち)の子、小三郎は八歳の時、日常的に利用してきた小さな橋がとつぜん撤去されてしまった体験から、世の見えない不条理と戦うことを人生の主目的と定めるようになる。いかにも周五郎らしい、強烈なメッセージ性を含んだ成長小説である。

 しかし、この執筆は周五郎の体力を消耗させた。ふだんは間門から根岸の山を越え、八幡町、永楽町を経て伊勢佐木町に至る四キロ以上の散歩を日課とするなど、健康には気を使っていたが、飲酒のため肝臓を冒されていた。医者嫌いで注射一本打たせなかったことも災いした。昭和四十二年(一九六四)二月十四日、仕事場で心臓衰弱を併発し、帰らぬ人となった、あるじのない机上には、書きかけの『おごそかな渇き』第八回が空しく置かれていた。周五郎初の宗教的テーマの大作になる予定だったようだ。幼い日に近所の教会に通ったことで影響を受けたのか、酔余に讃美歌を省略せずに歌うという癖がった。

 ――周五郎に、こんなことばがある。「慶長五年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなくて、そのとき、道修町の、ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたか……その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探求するのが文学の仕事だ」(講演「歴史と文学」一九六一)

権力の側に立たない真っ直ぐな倫理性と優しさゆえ、没後四十五年の経年変化がなく、癒しを求める読者に支持され続ける――山本周五郎とはそんな作家なのである。


主要参考文献 清水きん『夫山本周五郎』(文化出版局、一九七二)、木村久邇典編『研究山本周五郎』(学藝書林、一九七三)、尾崎秀樹『評論山本周五郎』(白川書院、一九七七)、木村久邇典「山本周五郎と『きねや』」「別冊新評 山本周五郎の世界」(新評社、一九七七)、木村久邇典『山本周五郎青春時代』(福武書店、一九八二)、『新潮日本文学アルバム 山本周五郎』(新潮社、一九八四)水谷昭夫『山本周五郎の生涯』(人文書院、一九八四)、木村久邇典『山本周五郎横浜時代』(福武書店、一九八五)、笠原伸夫『山本周五郎論』「國文学 解釈と鑑賞」(至文堂、一九八八)、大河原英與『山本周五郎最後の日々』(マルジュ社、二〇〇九)、山本周五郎『山本周五郎戦中日記』(角川春樹事務所、二〇一一)