○吉備悠久

2017年10月07日

 足守(岡山県岡山市)
緒方洪庵の像

緒方洪庵の像
 名も知れない白い花の根を浸す水の流れにわく、こまかな泡。穏やかな午後の陽光に、国道沿いの足守川の岸辺もいくらか温(ぬく)もっているように見えた。葉を落とした柳の向こうには、堤越しに古い家並が軒を連ねている。

 町の東西をつなぐ葵橋を渡ると、そこは陣屋の区画や侍屋敷のたたずまいを残した町並保存地区だ。白い漆喰の海鼠壁、格子戸のピタリと閉まった重厚な屋根と虫籠窓、軒の深い商家。その一角にあるのが旧家老(杉原家)の居宅である。県指定の重要文化財として、昭和五十年(一九七五)に約六千六百万円をかけて解体修復され、現在は一般に公開されている。

 武士の家は地位によって格式の差が大きいものだが、これは桁行十二間、梁五間という規模。風格のある長屋門と、玄関を唐破風とした豪壮な武家書院造である。中門を入ると十三畳の広間と書院つきの八畳間が、池のある庭に面している。家老はここで客と対面したのだろう。こけ蒸した庭石が、家屋に封印された歴史を象徴しているようだ。裏手へまわると、湯殿と厠の傍らにある背の高い南天の実や、枝の伸びた柑橘類の樹木や、そうしたものに冬の日影が鮮やかに差した。

 現在三百戸ある足守地区の民家のうち、いまだに江戸前半期の建物の形姿をとどめているものは約百戸に達するという。この陣屋町の地割りがつくられたのは、足守藩の初代藩主木下家定から数えて四代目の利當(としまさ)のころで、その子の利貞(としさだ)の代にいたって完成したとされている。時あたかも将軍家綱の治世で、ようやく戦国の余風もおさまり、諸侯が文治に力を入れはじめたころにあたる。足守藩は二千五百石の小藩ながら、代々の藩主は名君が多く、藩士の教育に力を尽くした。

 近代に入って、この木下家から歌人が生まれた。十四代当主となった利玄(りげん)である。幼時に父母から離され、旧臣らに伴われて上京、七歳で実母が亡くなった際にも帰郷できず、学習院に在学中の十七歳ではじめて足守に帰り、「幼(おさ)な覚(おぼえ)かすかにある山あらぬ山送りむかふる母のおくつき」という歌を詠んだ。短歌革新運動の中心、佐々木信綱の門下生だったが、学習院中等科で志賀直哉と知り合ったのが縁で、白樺派の同人としても活躍した。

 武家屋敷からさほど遠くない近水園(おみずえん)に、利玄の生家がある。荒壁の大きな土蔵を付した長屋門風の門構えは、じつは大正はじめに旧藩士の離れ座敷を移築したものといわれるが、近年この土蔵の中から太閤秀吉や北政所(ねね)など豊臣氏関連資料が発見され、話題になったことがある。初代藩主家定がねねの兄にあたると聞けば、当然のようにも思えるが、古文書が三百年以上も人に気づかれることなく眠っていたということ自体、この土地の歴史の奥行きを示すものといえよう。

 足守の歴史といえば、この地方が吉備の穴海の入江であった約六千年もむかしに遡るという。有史時代になると人家は数万に達し、『魏志倭人伝』に出てくる投馬国(つまこく)も、この足守川流域以外に考えられないとする研究もある。『日本書紀』には「葦守」という表記で登場する。三世紀から五世紀にかけてつくられた古墳は、存在が確認されているものだけでも三百二十四基を数えるという。

奈良時代以降の吉備地方を支配したのは加夜(かや)氏という豪族である。のちに「賀陽」という字を当てるようになり、読みも「かよう」となった。吉備津神社の神主にもなっている。臨済宗の開祖栄西は、その賀陽氏に連なる人である。

戦国時代の足守は吉備の北門にあたるため、織田勢力と毛利勢力のせめぎ合いの場となり、有名な高松城水攻めなども起こっている。関ヶ原の戦いの後には、小早川秀秋が備前・備中・美作五十万石に移封されたが、嗣子なくして断絶。間もなく秀秋の実父木下家定が姫路から賀陽・上房二万五千石に移封している。

 ところで、江戸時代全期を通じて足守の生んだ人物といえば、蘭学者の緒方洪庵を忘れてはならないだろう。江戸・大坂・長崎で学び、大坂瓦町で適塾という蘭学塾を開いた。その学殖を慕って集まった全国各地の入門者の中から、大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎、高松凌雲、池田謙斎ら維新の逸材を輩出した。日本で初めて種痘の技術を導入、コレラ流行時にはいち早く治療方針を示した医書を配布、撲滅に功があった。維新直前の多事多難な時期、これからというのに幕府に召し出され、後ろ髪を引かれる思いで奥医師兼西洋医学所頭取の地位についたが、在職わずか十か月で病没した。

 その生地にブロンズ像があると聞いて、川の対岸に戻った。狭い路地を抜けると冬枯れの畑があった。向かいの小高い丘にその彫像があった。やや前屈みに正座しているが、穏和な、しかしどこか厳しい表情で、何かを語りかけるような姿である。

 夕方の空気の淡い灰色の中に、この一角ばかりは静かで瞑想的な深みを加えているように思われた。
 
注 この連載は山陽新聞社刊『吉備悠久』(2006年)の本文を抜粋したものです。最初の取材は2001年11月に行われ、同行の日本画家森山知己さんの作品とともに、翌2002年年3月10日の紙上に発表されました。これは新聞・単行本の双方に掲げられましたが、今回も許可を得て、森山さんのサイトとリンクしました。ぜひ、下記をクリックしてご覧ください。
 → 森山知己「花鳥風月」内、「足守 岡山市」