○寄稿再録

2017年10月22日

 ヘンリー・S・パーマー 小伝(1)
H.S.パーマー胸像(野毛山)

H.S.パーマー胸像(野毛山)
 横浜黎明期の人々の中で、パーマーは文人ではなく、お雇い外国人として来日した技術者であるが、一方ジャーナリストの一面を有し、当時の不平等条約に苦しめられる日本外交のために、多々弁じるところがあった。本稿は2011年浜銀綜合研究所の機関誌に寄稿したもので、主に近代水道敷設に関する功績を記したが、不平等条約については後半部分において述べている。不十分だが、昨今の対米従属について考えるよすがともなれば幸いである。2回に分載し、参考文献は文末に掲げた。
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開港地の生命線は水道にあり
一世紀の忘却を経て蘇る業績
  近代水道の建設者 H・S・パーマー 


華やかな文明開化の陰に
 横浜という都市は、近代文明の発祥地である。中心地には、鉄道、港湾施設、病院、教会、氷、アイスクリーム、石けん、クリーニング、テニス、競馬、ボウリングにいたるまで、「もののはじめ」に関する話題にこと欠かない。その中で、とかく忘れられがちなものは水道であろう。幕末から明治前期にかけての横浜は、華やかな文明開化の外貌とは裏腹に、埋立地のため浅井戸に頼らざるを得ない不便な都市であった。初期には商人たちが共同で水道会社を創設したが、漏水がひどい上に濁水が混じるような不具合が続き、すぐに解散してしまった。このようなライフラインとしての飲用水や消防水にこと欠く状態が二十年も続いた結果、大火やコレラの蔓延さえ防ぐことができなくなっていたのである。
 
明治中期、横浜の人口はすでに七万に達していた。このときにあたって、衛生管理の行き届いた、十分な水量と水圧を安定的に供給し得る近代的水道システムを構築、短期間に実現したのが、イギリスからお雇い外国人として招いたH・S・パーマーであった。

 パーマーの人物像については長いあいだ一般の知るところではなかったが、一九八〇年代に入り、子孫にあたる貿易商樋口次郎氏による研究成果が発表されるに及んで、次第にその生涯と多大な業績の全貌が明らかにされ、昭和六十二年(一九八七)には横浜水道創業百年を記念して野毛山公園の旧野毛山配水池にブロンズ像が建てられ、横浜開港資料館においては特別展「水と港の恩人H・S・パーマー」が開催されるにいたった。 この結果、パーマーに関する認識は大いに高まったが、本稿においては樋口氏の伝記『祖父パーマー』ほかを参考に、神奈川文化の建設に功あった一人の外国人の業績を追ってみたい。

工兵隊員としてカナダへ
 十九世紀イギリス陸軍の工兵少将ヘンリー・スペンサー・パーマーは、一八三八年イギリス領インド帝国のバンガロールで英印軍参謀本部付大佐で名門出のジョン・フレーク・パーマーの三男として生まれた。バンガロールは美しい高原都市で、古くはマイソール王国の首都としてマハラジャ宮殿(現存)が象徴的存在であったが、イギリスによるインド帝国建設後は植民地支配の中心地となり、市街には各地から労働者が大規模に流入してきた。現在でこそインドのシリコンバレーなどといわれているが、パーマーの少年時代には植民地独特の貧困や身分格差が観察されたに相違ない。

 パーマーはおそらく十歳ごろにはインドを出て、イングランドのバースで私立校を経て一八五六年に英国王立ウーリッチ士官学校に入学、測量、道路、橋、港湾、水路、水道建設、築城、天文、気象、観測などを学び、翌年には工兵中尉に任ぜられている。技術系の才能に恵まれていたようだが、産業革命の最盛期にあった当時のイギリスは技術者の需要が高く、パーマーはその才能を軍隊の機構内で発揮しようと考えたのであろう。

 在学中に工兵としての道を歩むことをきめた彼は、さらに専門的なチャタムの陸軍工兵将校学校の工兵専門課程を修了し、一八五八年陸軍に配属、翌年十月カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州に王立工兵隊員の一人として派遣された。太平洋に面したカナダ最西部に位置する州で、バンクーバー島に州都ビクトリアがあるが、最大の都市は大陸本土のバンクーバーである。十九世紀の後半には領土拡張政策をとるアメリカとの国境紛争がも絶えなかった一方、多数の先住民族がイギリス人の入植に対して抵抗を示していた。

 パーマーはこのとき二十歳だった。派遣軍といっても、家族や医師を含む百八十余名の集団で、移住希望者をも含んでいたことは、往路の船中でパーマーの編集した新聞が「移住兵たちの新聞」と題されていたことでもわかる。教養から娯楽にいたるまでの総合的な情報紙で、とくにパーマーの連載した「航海中の博物誌」は自然科学の該博な知識を駆使した記事として好評だったという。

知日派として登場
 バンクーバー島を基点とする工兵たちの町づくりが始まった。原野を測量し、道路をつくり、教会や病院、学校、気象台を建てるという、入植地のインフラづくりに精を出した。パーマーはこのような場面で抜群の能力を発揮した。現在でもこの地帯には広域にわたって「パーマー」の名を冠した道路がいくつも残っているほどだが、測量の野営中に原住民に襲われ、大事にいたるところを、パーマーの機知をもって難を逃れたという話もある。

 植民地開発の勤務で実績を上げたパーマーは、帰英後に陸地測量本部に配属され、工兵大尉に昇格した後、さらにシナイ山探査をはじめ多くの学術的調査も手がけている。イギリスでは、このころまでに聖書に記されたシナイ山の所在をめぐる論争が続いていたが、パーマーは徹底した調査によって、一応この論争に決着をつけたのである。

 その後は西インド諸島のバルバドスや香港に赴任し、清国広東水道の設計などもを行ったが、パーマーとしては植民地的な差別に批判的な総督ポープ・ヘネシー(一八三四〜一八九一)の副官として配属されたことで、その公平な性格や温情主義に影響されることになる。パーマー自身、すでに身分的、経済的支配への批判精神を育んでいたともいえよう。

 いずれにしても、このようなパーマーの資質や軍隊経験により培われた組織的な推進力は、来日後の活動に大いにプラスとなり、成果をもたらすことになったのである。初来日は明治十二年(一八七九)十月で、ヘネシーから日本の実情調査を命じられてのことであった。この背景には日本の外交当局の働きかけがあったのだが、以後パーカーは二度にわたって香港・日本間を往復し、土地測量および天文観測体制の充実を提案、本国の雑誌「ネーチャー」(一八八二年七月号)に「最近の日本の進歩」というタイトルの精細な、日本に対して好意的な論文を寄稿、一躍知日派として脚光を浴びた。
 
 この論文が出て三ヶ月後、パーマーは再度来日して東京のパークス公使のもとに駐在した。折からパークスのもとには、前述のように横浜の水道施設建設の陳情書が届いていたので、水道の専門家パーマーが来日している旨を日本側に知らせた。すでに外務卿井上馨はパークスの論文を読んでいたこともあり、神奈川県令の沖守固に会いに行くよう命じた。
 
水道設置で実力を発揮
 パーマーは沖からの水道設計の依頼を承諾、三ヶ月という短期間に日本人技師三田善太郎とともに水源候補地を調査し、多摩川水源案(予算百四万円)と相模川水源案(同百二十九万円)の二案を提出した。いずれも実現性の高い案で、予算額も日本側の見積りよりはるかに安いものであったが、何しろ前例のない大工事なので、検討に一年以上を費やした結果、明治十六年(一八八三)十月に相模川案を百万円で施行するため、パーマーを二ヶ年間雇用することに決定を見た。報酬は月額五百円だった。これより三年後の内閣総理大臣の年俸が九千八百円という時代である。

 実際の工事は二年後の四月に開始された。水源から野毛山の貯水池まで約四十三キロメートル。この間を三区間に分け、同時に施行に入った。市内給水管設置の総責任者を三田善太郎とし、同じく各期間ごとに責任者を任命、専用電話や軽便鉄道などを設置させたあたりに、パーマーの工兵としての知識と経験が生かされているのを見る。

 取水所は津久井郡山中の三井村(現、相模原市津久井町)に設けられ、二本の鉄管によって一日最大五七二〇㎥の用水を取り入れることにしたが、水流に高下があって量安定しないので、あらかじめ沈澄池を設け、その中に汽罐などの設備を固定するという工夫をを要した(この跡は相模湖の湖底となってしまった)。 鉄管を延長するには、測量さえ難しい断崖絶壁を縫い、いたるところにトンネルを掘削しなければならなかった。ゴールの野毛山には濾過装置と貯水池が設けられたが、膠灰と粘土を用いた堅牢なものとするため、工事は天候に左右され、遅々として進まなかった。
 
 それでも工事は予定をオーバーすることなく、三十ヶ月という短期間に完了した。パーマーはその理由を、各区間の責任者となった三田善太郎をはじめ日本人技師の孜々たる努力によるものと、口をきわめて賞讃している。 揚水式が行われたのは明治二十年(一八八七)九月二十一日で、各区に次々と送水が開始された。途中何箇所かの破損個所の修理を行ったが、全体としては完璧なできばえで、翌月の十七日には市街への配水が行われるにいたった。獅子頭をかたどった共用栓(イギリス製)から、勢いよくほとばしる水を見て、市民は歓声をあげた。二日後には吉田橋で消火栓のデモが行われた。それは明治五年の九月に大江橋(現、桜木町駅最寄りの国道一六号橋)から馬車道・本町通界隈にガス灯がともったとき以上に、人々を感動させ、安堵させた瞬間であったろう、ちなみ現在の横浜市は山梨県道志村から取水している。