○寄稿再録

2017年10月24日

 ヘンリー・S・パーマー小伝 (2)
パーマーの水道施設(横浜市)

パーマーの水道施設(横浜市)
パーマーの受難
 パーマーの成功を見て、長崎、神戸、大阪、東京、函館などの諸都市が水道の近代化を図ったが、施行はかなり遅れ、明治三十年代に入ってから実現した例もある。いずれもパーマーが直接指揮をとったものではなかった。プロジェクトの遅滞には予算の制約も関係しているが、日本ではまだ組織マネジメントが未熟であったことが指摘されよう。

 パーマーは、さらに内務省土木局の名誉顧問となり、横浜築港計画の相談を受けた。開港後すでに三十年近い歳月が経過し、船舶の出入りが増加しているというのに、本格的な修理施設もなかった。この横浜築港計画に対して、すでに政府の内務省土木局を牛耳っていたオランダ系技師たちは、東京築港を優先すべきだとする主張を打ち出してきた。

 自国の工法に固執し、港域が狭いなどの理由のほか、経費が高すぎるという欠点をあげてパーマー案に難クセをつけたのである。つまり、横浜が先か、東京が先かという議論であるが、情勢は内務省の東京案有利に展開し、閣議でパーマーの横浜案は否決されようとした。

 このとき外務卿に就任した大隈重信は、条約改正を宿願としていた関係で、英国側の改正論者であるパーマーの肩を持つべく、政治力を発揮した。閣議資料を内緒で、まだ事態を知らなかったパーマーに閲覧させるよう手配し、その反論を促した。真相を知ったパーマーは憤激し、東京優先案への全面的な反論を展開、予算も内務省の二百三万余円に対し、自案なら百九十六万円に節減できるという説得力に富んだ上申書を提出した。さらにパーマーは内密の文書でオランダ技師の技術や財政的能力の不足を指摘し、彼らが「邪魔者」である自分を「無キ者ニセント欲シ、大胆ナル企ヲ起シテ余ヲ斃サントナセシガ……」という暴露まで行った。どうやらパーマーの命を狙う動きがあったものと見える。

 大隈は深くパーマーに肩入れし、閣議の趨勢をひっくり返そうと勤めた。当時の内相は山県有朋。まことに手強い相手で、激しい論争は二ヶ月にも及んだが、ついに大隈の外交を睨んだ視点と、パーマーの横浜水道完成の実績とが功を奏し、山県を押さえ込んだ。明治二十二年(一八八九)黒田首相は「パルマル案」の採用を決定、神奈川県知事に工事執行を命令した。もしこのとき内務省案が採用されていたら、港都横浜の繁栄はなかったであろう。それほど重要な閣議決定だったのである。

ジャーナリストとしての正義感
 一方、横浜築港の進行具合はどうであったか。それについて述べる前に、条約改正問題に関するパーマーの言論活躍を見ておこう。

 江戸幕府が安政五年(一八五八)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、外交知識の決定的な不足から、日本側に不利な不平等条約であった。すなわち、.外国に治外法権(領事裁判権)を認め、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと、日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていたことに加え、さらに無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと、などである。なかでも関税率五パーセントの低率固定は、安価な外国商品の大量流入を招き、貿易不均衡を生んだ。

 このような不平等条約の撤廃こそが歴代内閣の最大の課題であったが、自由主義貿易の先進国であるイギリスさえ、非常に強硬な態度を示して、まともな交渉に入ることを許さない。そのうちに与野党間の利害関係が錯綜して政争の火種となり、関係閣僚は年中対応に追われていた。井上馨や大隈重信が、たまたま日本の立場に同情と理解を示したパーマーの論説を目にしたさい、おそらく小躍りしたであろうことは想像に難くない。  
 井上外務卿はパーマーが明治十五年(一八八二)から約半年間、日本に滞在した折に何度か接触し、わが国が近代化に向けて努力している実態を、本国の然るべき新聞を通じてキャンペーンしてもらえないかと持ちかけ、パーマーの快諾を得た。

 パーマーが「タイムズ」に投稿した対日不平等条約の内容と、その実施状況は非常に精緻なものであるが、その底にはヒューマニズムと正義の思想が脈々と流れていることを見逃してはならない。一八八四年六月九日付の同紙に寄稿した文章の結語は次の通りである。

「全般的にみて、この議論(注、不平等条約改正論)は日本側が理に適っており、諸般の事情は、『現行条約は子供の服が一人前の大人に合わないようにもはや日本に合わない』と言ったある日本人の言葉通りであると結論づけないわけにはいかない。更にこれは、保守党の政策か自由党の政策かという問題ではなくて、人間の常識と通商拡大の問題であり、更につけ加えれば、これは進歩の大道を熱のこもった足取りで歩むきわめて聡明で目覚めた民族を我々がいかに理解し、いかに対処していくかという問題なのだということをここで特に強調したい」(樋口次郎・大山瑞代編『条約改正と英国人ジャーナリスト』)

 パーマーの熱意は「タイムズ」編集部を動かし、社説で同じ問題をとりあげるまでになった。約二年後には日本と各国との間に条約改正会議が開催されるが、その骨抜きの内容はパーマーをいたく失望させた。途中経過は省き、国内の大きな紛糾や日清・日露戦争を経て、この問題が完全に解決したのは明治四十四年(一九一一)であるが、パーマーは一八九二年までに十八篇の論文を寄稿し、イギリス国内の世論喚起に大きな役割を果たした。

心ない中傷に失意の最期
 条約改正問題のほか、パーマーは知日派ジャーナリストとして、さまざまなテーマをとりあげている。滞日中に訪れた浅間山、草津、伊勢などの紀行をはじめ、たまたま発生した磐梯山噴火や森有礼、大隈重信、ロシア皇太子らへのテロ事件などにつても、的確にレポートしている。明治二十三年の帝国憲法発布式典の記事などは、式次第から市中の賑わいにいたるまでを日本の新聞よりも詳細に報じているが、とくに日本橋界隈の祝賀パレードに新橋のきれいどころが加わる描写は新聞記者はだしの躍如とした筆致で読ませる。

「……まわりから熱狂的な歓声が沸き上がった。何だろうと皆と共に駈け寄ってみると、これはまあ! かの有名な新橋芸者連中が祭りの衣裳に着飾り、哀調あふれる火消しの歌を繰り返し繰り返し歌いながらやってくるではないか! 稀にみるようなあか抜けたしとやかさで、いつも人目を引くきれいな彼女たちは、(中略)短い木綿の縞模様の着物をきて、長い黒髪を昔風に高く結い上げ、か細い脚に紺地のもも引きをつけ、華奢な素足に草鞋をはいて、重そうに進む山車の後に列をつくってゆっくり進んで行く」(「憲法の誕生」一八八九・二・一六)

 街頭の庶民にまじって楽しんでいる様子が窺える、この例にみられるように、パーマーは日本の風土に関心を寄せ、日本を心から愛していたのである。お雇い外国人の中には、日本をビジネスの対象としか考えないケースも多かったが、パーマーは例外であった。

 しかし、日本はパーマーの人格を十分に理解したとはいえない。イギリスに一時帰国した際、日本政府から水道敷設の功により、勲三等旭日章を授けられているが、それは型通りのものに過ぎなかった。大隈卿の推挽で横浜築港案が採用されたことで、内務省のオランダ技師に影響された日本人技師からは何かにつけ妨害を受けた。さらにパーマーは日本製セメントの品質が水準に達していないという判断から、全量を自国から輸入することに決したため、日本国内の業者から猛反発を受けた。

 新聞には、国産品のどこが劣るのかといった程度の非難はまだしも、パーマーが工兵エンジニアのため、民間エンジニアより劣るのではないかといういやがらせ記事や、内務省管理下での工事ではなく、神奈川県知事の統括としてのは内務省官制に反するといった形式論が持ち出され、ついにはパーマーが横浜水道の工事施行に際し、資材調達を一任された際に六万円を懐にしたという、いわれのない中傷にまでおよんだ。

 パーマーは、この風説を流した新聞に対し、断固抗議し、謝罪記事を出させたが、セメント問題は容易には解決できなかった。輸入品は想像以上に高くつくし、国産業者の攻勢も弱まる気配がないので、やむなく国産品を採用することを決意、比較的優良製品を供給できる業者にのみ納入をみとめたが、なおも不安を拭い去ることができず、各工場を視察して入念にチェックを行った。

 工事そのものはまず水堤の建設から始まったが、批判やゴシップの嵐の中で、現場作業に対するパーパーの監督はひときわ厳しくなった。コンクリートの搗き固め作業にも、絶えず目を光らせる必要があった。そのような日々が続いた明治二十五年(一八九二)十一月、パーマーは突如チフスに罹り、一時は快方に向かったが、翌年二月十日に卒中で斃れた。享年五十四歳十ヶ月だった。遺骨は青山外国人墓地に埋葬された。工兵出身の彼は頑健な身体に恵まれていたはずだが、一連の紛糾によっていかに消耗したか、想像に余るものがある。

 果たしてパーマーの没後、水堤のセメントが崩落、工事は大幅に遅延し、国会で問題になるという事態に発展したが、政治家や経済界はパーマーに責任があるような言辞を振りまき、築港工事を後継者である日本人技師に任せ、何とか完成させた。責任の所在は、日露戦争の勃発で曖昧になってしまった。

 このほか、パーマーの没後三、四年後に完成した横浜船渠(ドック)も、彼の原案になるものであるが、最後に一つ付言しておきたいことがある。
 パーマーは明治二十年、水道建設に従事していた当時、県令森守固(鳥取県出身)の邸で行儀見習いをしていた同郷の財藤うたという十四歳の少女を見知った。二年後、うたは単身で再来日し東京に居を構えたパーマーの身のまわりを世話することになり、やがて女子が生まれ、たかと名付けられた。この人が、冒頭に記した樋口次郎氏の母堂にあたる。


■主要参考文献 神奈川県編『横浜水道誌』(神奈川県、一八九一)、横浜市水道局『横浜市水道70年史』(横浜市水道局、一九六一)、神奈川県史編纂室『神奈川県史 通史篇6』(神奈川県、一九八一)、ヘンリー・S・パーマー『黎明期の日本からの手紙』(樋口次郎訳・筑摩書房、一九八二)、樋口次郎・大山瑞代編著『条約改正と英国人ジャーナリスト――H・S・パーマーの東京発通信』(四文閣出版、一九八七)、『横浜水道100年記念 水と港の恩人H・S・パーマー展示図録』(横浜開港資料館、一九八七)、樋口次郎『祖父パーマー――横浜近代水道の創設者』(有隣新書、一九九八)、