○寄稿再録

2017年11月03日

 森鴎外 小伝(1)
森鴎外

森鴎外
 最近までの漱石ブームで、すっかり忘れられた感のある鴎外だが、この二大文豪は近代日本文学の認識作業において盾の表裏をなすので、いずれか一方を欠いて成り立つというものでもない。むかしの読者は、漱石一辺倒の後、必ず鴎外に戻るといわれたものだが、さて現代はどうか。
 近年の鴎外理解において、従来にない急速な進展が見られたのは、舞姫のモデルの発見と、軍医時代の鴎外のモラルを厳しく問う傾向である。
 以下の小伝は数年前、銀行の綜合研究所の機関誌に掲載したもので、その性格上研究論文はないが、鴎外についての最新の関心を反映したものである。なお、「鴎外」の「鴎」は旧字体にしたいところだが、現実には環境依存文字となっているので、やむなく新字体を用いる。2回分載とし、参考文献は末尾に記す。

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     波濤が隔てた永遠の記憶
     文豪若き日の学問と情熱

              森鷗外

横浜港の長い桟橋
 森鷗外には明治四十三年(一九一〇)に発表された、原稿用紙にして十枚足らずの、筋らしいものもない小品がある。「桟橋が長い長い」という冒頭の一節で有名になった。

 洋行する夫を横浜港桟橋で見送る夫人の心理を表現したもので、モデルは鷗外の出身地津和野の旧藩主にあたる亀井茲常伯爵夫妻。結婚後二、三年目の、まだ若妻といえる夫人は第二子をみごもっているところで、夫の長期にわたる留守は不安でたまらず、名残もつきないが、世間体を気にするあまり、それを顔色に表すこともできず、ハンケチを振ることさえ遠慮してしまう。
 小説には記されてないが、夫は宮内庁式部官で、部下を伴っての欧米視察旅行である。鷗外はその見送りに加わり、亀井夫妻の、とくに妻の様子ばかりが気になっていたようだ。
「桟橋が長い長い。/今まで黒く塗った船のいた跡には、小さい波が白らけた日の光を反射して、魚の鱗のように耀いている」

 横浜港に、陸地からの総延長七三八メートル、桟橋部分四五七メートルの鉄桟橋が完成したのは、この六年ほど前だった。鉄の桁に板材を、鷗外の表現によれば「子どものおもちゃにする木琴のように」渡した構造で、板の隙間から水面が見えた。女性の足には歩きにくく、小説の中でも早足で先を行く夫を追う妻が、つい遅れがちとなるわけだが、あまりセカセカと歩くのは身辺に侍る女中の手前もあって、歩調は「徐(ルビ、おもむろ)に」とせざるを得ない。しかし、夫の乗るフランス船は、選りにも選って桟橋の突端にある。

 鷗外がこのように女性の挙動に終始注目し、心の動き想像していた理由は明かだ。その二十二年ほど前に、鷗外自身が同じ港の同じ場所で、異国の女性を見送る立場にあった。当時はまだ桟橋がなく、艀で本船へと送り届けたのだが、その距離も時間も二十六歳の彼にとっては、ひとしお「長い長い」ものだったに相違ない。

留学までの苦闘
 森鷗外は文久二年(一八六二)一月十九日(新暦二月十七日)石見国鹿足郡津和野(現、島根県津和野町)に、森靜泰(維新後、静男)、峰の長男として生まれた。本名林太郎(ルビ、りんたろう)。弟妹として六歳下の篤次郎、九歳下の喜美子がある。森家は代々亀井家に仕える典医で、父は婿養子ながらオランダ医学を学び、町医者を兼業していたが、元来穏やかな性格で、母親のほうが積極的な性格で、家事一切をとりしきっていた。

 小藩津和野の出身者にとって、学問は唯一の栄達の手段で、その期待は一に林太郎の双肩にかかった。十歳のときに父に伴われて上京、医学修業のために神田小川町の西周邸から本郷のドイツ後塾に通った。西は親戚筋で父親と親しく、このころ陸軍大丞(制度改革、条例創設などの責任者)、宮内省侍読(天皇への進講係)だった。

 二年後、下谷和泉橋にあった東京医学校予科に入学したが、このとき実際は十二歳のところを、二歳ほどサバを読んで十六歳として入学資格を得て官費生となり、寄宿舎から通学することになった。この学校は後の東京大学医学部である。

 西の世話で森家は戸籍を東京に移し、林太郎は卒業時の席順が上位の学生は文部省のドイツ留学が許可されるというので、健康を害するほど勉強にいそしんだが、結果は二十三人中八位の席順に終わった。ドイツ人の主任教授に嫌われたためともいわれるが、林太郎の挫折感は想像以上で、首席となってライプチッヒ大学に留学した三浦守治(後に東京帝国大学医科大学教授)に対する嫉視の念に悩まされたことが、日記や漢詩にうかがえる。

 しかし、ここで遊んでいる余裕はない。しばらく父の診療助手をつとめた後、大学の同期生で陸軍軍医となっていた小池正直の紹介で陸軍省に出仕、間もなく陸軍軍医本部に配属され、プロシア陸軍の制度に関する調査書を『医制全書』十二巻にまとめた。軍当局に語学力を示すことにあったが、狙いは図に当たり、明治十七年(一八八四)、軍隊衛生学研究のためドイツに官費留学を命じられた。

 出発は同年八月二十四日、横浜港から四十八日間でマルセーユに到り、パリを経由して十月十一日にベルリンに達した。几帳面な彼は航海中とドイツ滞在中の出来事や所感を日記につけているが、プライバシーに関わることは慎重に回避している。

 公的な活動記録としては、主な目的である医学の修得(兵食の研究)で、ライプツィヒ大学のホフマン教授ほかの指導を得て所期の成績をおさめているが、いまだ二十代の半ばにも達しない林太郎の若いエネルギーは、大部な「日本兵食論」を独文で仕上げたり、ドレスデン地学協会の大会に出席の際、地質学者ナウマンの偏見に満ちた日本論を激しく論駁したり、といった多方面の活動からもうかがうことができよう。

 そして、そのエネルギーが女性へと向けられるのは、また必然であった。帰国後に書かれた小説「舞姫」によると、主人公の留学生太田豊太郎はベルリン滞在中のある晩、帰宅の途中、下町の教会前を通り過ぎようとして、ふと門のあたりで忍び泣きをしている女性を見かけた。年は十六、七か。足音におどろいて振り返った顔を見て、豊太郎はは息を呑んだ。「余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問いたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩われたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか」

 それまで勉強一本槍で、留学生仲間の遊びにも加わらず、固く身を持していた豊太郎だが、この出会いには無防備だった。貧しい女性が、仕立職人の父親に死なれ、母親は病臥しているため、葬儀代もままならないという窮状を知ると、ためらわずに自分の腕時計を外し、入質するようにと差し出したとある。

見出されたエリスの実像
「舞姫」は鷗外漁史という号で発表され、一躍評判になった(この号は長年定説となってきた「鴎の渡し」という意味ではなく、留学中の川沿いの景色に由来するという新説が出ている)。しかし、当然のように虚構があり、第一、エリス(本名エリ−ゼ)という名のヒロインが語り手豊太郎との別離に耐えられず、心を病んでしまうという結末が、実際とは異なる。彼女は明治二十一年(一八八八)九月八日、帰国した林太郎の後を追ってきたのだった。

 女をとるか、家や国家をとるかという命題になると、明治人としての結論は明かだった。辛うじて鷗外は醜聞の拡散を最小限にとどめるため、なま臭い事件を格調高い悲恋ものにロンダリングして公にしたのである。この捨て身の戦法はひとまず功を奏したかに見えた。

 しかし、エリスの実像については、鷗外の没後、成人した子どもたちや鷗外の八歳下の妹小金井喜美子(歌人)らの回想録により、新事実が判明しはじめた。それらを総合すると、女性の出現に驚倒した森家は、問題の解決を喜美子の夫小金井良精(解剖学・人類学)に託した。良精は鷗外の四年前にドイツに留学、やはり現地の女性と問題を生じ、金で後始末をした経験から、適任≠ニ思われたのである。築地の精養軒ホテルに滞在中の相手は、小柄の美しい女性で、意外に人柄がよく、手先が器用で帽子職人をしているなどのことがわかった。

 喜美子によれば良精は彼女に森家の事情を縷々説明し、その後も日参しながら相手の理解を得んと努めたが、ようやく帰国を納得してもらうまでには一ヶ月が費やされた。同年十月十七日に良精は鷗外とその弟を横浜港の本船まで伴い、別離に立ち会った。甲板上の女性は、笑顔でハンカチを振っていたという。

 喜美子は直接この交渉過程に顔を出すことはしなかったというが、夫から又聞きで得た交渉の雰囲気やエリスの印象を『森鷗外の系族』(一九四三)に記し、戦後も『鷗外の思い出』(一九五六)という回想録に繰り返している。「思えばエリスも気の毒な人でした。留学生たちが富豪だなどというのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなく帰るのは、知慧が足りないといえばそれまでながら、哀れなことと思います」

 ――しかし、この回想はかえってエリスへの興味を増幅させた。昭和四十九年(一九七四)になって、星新一(SF作家)が『祖父小金井良精の記』(二〇〇四)の中で良精の日記原文を公開、翌年には鷗外の上司石黒忠悳の日記も活字化され、女性の名がエリスではないらしいこと、鷗外の書簡を見た彼女が硬化し、示談交渉は一時暗礁に乗り上げたが、上司その他の努力で辛うじて収束したことなどが明かとなった。この間、鷗外は表面に出なかったとされていたが、じつは頻繁に女性と会っていたことも判明した。

 さらに昭和五十六年(一九八一)、明治期に横浜で発行されていた英字新聞の入港船客名簿に「エリーゼ・ヴィーゲルト」という名があることが発見され、女性の実名が確定された。鷗外の船の到着よりもわずか四日遅れの客船の、しかも一等船客として来日していたのである。そうした彼女の行動を、鷗外が知っていたのは確実のようだ。

 以後の約三十年間、研究者の動きは加速し、ついに二〇一一年(平成二十一)、ベルリン在住の現地事情に精通した女性の著述家により、基礎的な資料が発見された。教会の受洗や堅信礼記録などによると、鷗外の恋人のフルネームはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトで、一八六六年九月十五日、当時ドイツ領だった港町シュチェチン(現、ポーランド)クライネ・リッター通に生まれた。鷗外の四歳年下である。父は銀行の出納係だが、母親はお針子だった。その後一家はベルリンに出て居所を転々としたが、父親はエリーゼが幼いときに死亡した。鷗外と出会った時期や場所は特定できないが、踊りのほか、手先が器用だったエリーゼは、日本から帰国して後十年後には帽子職人として生計を立てていた記録がのこっている(六草いちか『鷗外の恋、舞姫エリスの真実』。