○寄稿再録

2017年11月09日

 森鴎外 小伝 (2)
エリス(エリーゼ)の肖像(六草いちか『それからのエリス』

エリス(エリーゼ)の肖像(六草いちか『それからのエリス』
文学者と軍医のはざまで
 一方、鷗外はエリーゼとの別離後五ヶ月足らずで、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚、前述の「舞姫」発表の年(一八九〇)、本郷駒込千駄木三丁目(現、文京区千駄木)に住居を定め、後に改築して「観潮楼」と号した。執筆活動も開始され、以後三十歳台から四十歳台の半ばごろまで、『文つかい』(一八九一)、『美奈和集』(一八九二)、『即興詩人』(一九〇二)などに代表される創作や翻訳によって文壇の地位を高めていった。

 本格的な外国文学の紹介者として、鷗外の功績は大きなものがあるが、とくに『即興詩人』はイタリアの各地に展開される華麗な恋物語で、国語と漢文を調和させた雅文には青春の記憶が濃厚に漂い、人を酔わせる詠嘆調は翻訳であることを完全に忘れさせる。

 とはいえ、鷗外は医事評論という分野もないがしろにはできなかった。留学時代からの兵食論は、国民病とされた脚気の原因を究明するものだが、現在のようにビタミンB群の欠乏による神経炎とする知識が普及する以前のこと、陸海軍の間でも見方が分かれていた。イギリス臨床医学系の海軍軍医高木兼寛は、脚気の発生率が軍艦によって差があり、下士官以下の兵や囚人に発症が多いことに気づいた。兼寛はこれをたんぱく質と炭水化物の割合の相違によるとし、炭水化物減少の手段としてパン食を採用、患者数を大幅に減らした。

 しかし、山県有朋や石黒直悳ら陸軍省のトップは、海軍に対抗する意地もあり、一つには白米をたっぷり与えることこそ志気高揚につながるというので、米食六合案に固執した。鷗外も、当時ドイツのコッホ研究所などが唱える細菌原因説に影響された。

 日清戦争に際して、鷗外は第二軍兵站軍医部長として中国各戦線を移動している。戦後は陸軍大学校の教官に任ぜられたが、明治三十三年(一九〇〇)六月小倉(現、福岡県北九州市)第十二師団の軍医部長として赴任を命じられた。鷗外の経歴上、有名な小倉左遷である。原因は不明だが、軍の衛生事業改良に関しての内部対立とか、執念深い論争癖が嫌われたとかの説がある。鷗外としては一時軍務を退くことも考えたが、むしろ中央より静かな環境が得られると考え直し、事実クラウゼヴィッツの『戦論』(戦争論)を全訳、さらにハルトマンの「美の哲学」の大綱を『審美綱領』として編述するなど、転んでもただでは起きない性格を示した。『戦論』は哲学書であるが、日露戦争にあたり一定の役割を果たした。また地元の人々との交流、著名人の墓所を探る日常もプラスとなった。

 日清・日露の両戦役に際して、鷗外は戦争の残酷さ(近代戦の大量死や虐殺、性犯罪)を目のあたりにしたが、従軍詩歌集『うた日記』(一九〇一)には戦意高揚や軍務の慰めを意図したものが多いが。例外として戦場で紛失した袖口のカフスボタンを惜しむ「扣鈕、)という詩を忘れてはなるまい。「べるりんの都大路」にあったアーケード街。その「電灯青き店にて買ひぬ」ボタンは、「こがね髪ゆらぎし乙女」への思い出に誘われるが、その女性も「はや老いにけん/死にやもしけん」と歌っている。

「横浜市歌」の成り立ち  
これより前、鷗外は最初の妻登志子との間に長男於菟をあげたにもかかわらず、最近発見された資料によると性格不一致のため「筆硯の妨げになる」と一年半で離婚、その後は母親のお眼鏡にかなった隠し妻児玉せきのもとに通っていたが、「萬朝報」に暴かれて世間の噂になると再び母親の出番になり、今度は大審院判事荒木博臣の長女志げとの再婚話とあいなった。相手も再婚だったが、明治三十五年(一九〇二)に結婚、翌年長女茉莉が生まれた。「やんちゃ」な美人妻だったが、日露戦争で広島に赴任した鷗外は、留守宅に頻繁に愛の手紙を送っている。

 戦後鷗外は戦功により金鵄勲章を得た。文芸面では短歌界の中心人物として君臨したが、小説も反自然主義派の雑誌「スバル(昴)」を牙城に、性的自伝「ヰタ・セクスアリス」「杯」「桟橋」「蛇」「鼠坂」『青年』『雁』など、戦後文壇を意識した、回想、体験、世相などに材をとった作品を発表したが、初の口語体小説「半日」(一九〇九)は自家の嫁姑戦争を暴露調に描いた異色作である。なにしろ妻と母が食事に同座しないほどの対立に鷗外もホトホト手を焼いたようだが、妻の関心を創作に向かわせ、自ら添削の労をとったことで危機を脱した。森志げの名で発表された作品は二十四篇。近年再評価の動きがある。

 興味深いのは、「半日」発表の年がたまたま横浜開港五十周年にあたり、鷗外が「横浜市歌」の作詞を行ったことである。新聞には「東京音楽学校から横浜開港五十年の唱歌を作つてくれと托されたから、其方で譜を新しく先へ拵えて貰って其れへ嵌めて歌を作つて見たいと云つた処、南能衛教師の手に拠つて譜が出来上がつた……」(「横浜市歌に就いて」)と語り、中国では曲に合わせて作詞する「塡詞」という方法があると、もったいをつけているが、正確には時の横浜市長三橋信方の代人三宅成城(未詳)から、口頭で依頼された(「日記」三月二十一日付)とある通りだろう。当時、市歌の類を高名な文学者に依頼するという前例はなく、鷗外自身、この種の頼まれごとを受けたこともなかったが、おそらく横浜に特別な思いがあるところから断りにくく、それにしても家内に取り込みごともあることだし、引き延ばすつもりだった想像するのが自然である。二ヶ月近くを経て督促を受けると、作曲を先にしておいてくれという条件を出したのだろう。十日余り後に、音楽学校の若手教師(唱歌編纂掛)南能衛が打ち合わせに観潮楼を訪れているが、鷗外の異例な要求におどろき、真意を確かめるという目的もあったのではないだろうか。

 南は生色に満ちたな唱歌調の曲を完成(この後「村の鍛冶屋」や「村祭」の作曲を行ったとされる)、鷗外は音楽学校に呼ばれてそれを耳にするや、多少戸惑ったようだが、やがて「わが日の本は島国よ、朝日輝ぐ海に、連り峙つ島々なれば、あらゆる國より舟こそ通へ……」と、さすがにスラスラと詞を填め込んだ。「輝ぐ」を歌いやすいように「輝ふ」とするなど、横浜市によるわずかな手直しの後、同年七月一日の開港五十年祭において披露され、鷗外も式典に列席した。市歌としてはその後一世紀余も市民に親しまれている点で他の府県に例を見ないが、もし詞が先行していたら、もっと古風なものになっていたことだろう。

鷗外百五十年の秘密
 明治の終焉ともいうべき天皇崩御と乃木希典の殉死に触発され、『興津弥五右衛門の遺書』(一九一二)と『阿部一族』(一九一三)を短時日に書き上げた。江戸時代に発生した不条理な殉死事件を、感情を交えず、文献にてらして客観的に述べたものだが、体制に異を立て、個を主張することの困難性というテーマに踏み込んでいる。

『護持院河原の仇討』(同)は、武士社会の義務としての仇討に疑問を感じ、脱落した人物が、全く世間から消失してしまう挿話を扱い、価値観の相違を許容しない社会の窮屈さを描く。この間に、人買いに売られた女性の悲惨な自己犠牲を描く『山椒大夫』(一九一五)、安楽死と人間の幸福の問題に一石を投じた『高瀬舟』(一九一六)などが続く。

 このころ鷗外は武鑑収集という趣味を見出していたが、江戸期の儒者澁江抽斎が同好の先達であることを知り、その評伝を書くことを思いついた。母峰が七十歳で没した大正五年(一九一六)、五十四歳に達した鷗外は陸軍省医務局長を辞し、『澁江抽斎』を「東京日日新聞」ほかに連載した。

 抽斎は弘前藩江戸屋敷の侍医で考証家。埋もれた存在であったが、万巻の蔵書に囲まれ、書誌学にいそしんだところが鷗外好みだった。この人物の家系を子々孫々にいたるまでミクロに考証し、そのプロセスを記し、結果としてマクロな歴史叙述の及ばない、時代の文化を浮かび上がらせた手法は、晩年の鷗外のたどりついた境地であり、発表当時こそ不評だったが、史伝という分野をひらいた。

 史伝ものの執筆が一段落を迎えた大正十一年(一九二二)三月十四日、鷗外は杖をつきながら、ドイツに留学する於菟と、三年前に結婚してフランスに行く茉莉とを東京駅に見送った。遠い日の追憶が脳裏をよぎったとしても不思議ではない。

 あのベルリンの輝かしい一日、金髪の美しい恋人と腕を組んで都大路を散策し、一軒の青い灯のついた店でカフスボタンを買った思い出――。鷗外がどうしてもエリーゼ(エリスの本名)を忘れられなかったことは、次女の杏奴も早くから気づいていたが、娘三人の名がすべてエリーゼ本人や母親、その祖母に共通の、家系的なミドルネームに由来していたことが、教会の記録などから判明したのも、つい最近のである(男子の名は当時プロイセンの有名人から採る)。鷗外は、だれにも見えるところに、生涯最大の秘密を隠し込んだのだった。

 東京駅でわが子の見送ってから約四ヶ月後の七月九日、鷗外は自宅で息を引きとった。死因は萎縮腎だが、結核も進行していた。向島弘福寺にある墓標には、親友賀古鶴所への遺言に従い、単に「森林太郎之墓」とだけ刻まれている。
    
参考文献

小泉浩一カ『森鴎外論実証と批評』(明治書院、一九八一)、 竹森天雄編『森鷗外』「新潮日本文学アルバム」(新潮社、一九八五)、小金井喜美子『鷗外の思い出』(岩波文庫、一九九九)、坂内正『鷗外最大の悲劇』(新潮選書、二〇〇一)、金子幸代『鷗外と神奈川』(神奈川新聞社、二〇〇四)、末延芳晴『森鷗外と日清日露戦争』(平凡社、二〇〇八)、六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社、二〇一一)、山崎一穎監修『森鷗外 近代文学界の傑人』「別冊太陽」(平凡社、二〇一二)ほか。