○寄稿再録

2017年11月15日

 北原白秋 小伝 (1)
北原白秋

北原白秋
 不倫という行為への常軌を逸した社会的反応は、日本社会の未成熟のゆえか、はたまた先進性のゆえか。不義密通、姦通という忌まわしい響きのことばで指弾され、弁解の余地もなかった戦前とは、どれほどの相違があるのか。
 このような社会風潮に、最も影響を被った作家(詩人)として、北原白秋の例をあげることに異論はあるまい。数年前、横浜銀行のシンクタンク浜銀総合研究所の機関誌“Best Partner”のために執筆したものを再録する。参考文献は(2)の末尾に掲げる。
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水清き水郷から雨しげき岬へ
青春の挫折から得た詩と真実
 詩人 北原白秋


三浦三崎の憂愁
〈雨はふるふる 城ヶ島の礒に/利休鼠の 雨が降る
  雨は真珠か 夜明けの霧か/それともわたしの忍び泣き……〉

 大正二年(一九一三)、北原白秋の詩によって全国的に知名度が高まった城ヶ島(神奈川県三浦市)は、周囲約四キロ、人口約六〇〇の小島である。三崎地区から入るには、全長五七五メートルの城ヶ島大橋を利用するが、関東大震災前までは渡し船だけに頼りで、文字通り白砂青松の風情をとどめた離島だった。

 白秋にとって、三崎は深い意味をもつ土地だが、最初に訪れたのは明治四十三年(一九一〇)の五月、二十五歳のときだった。そのころ親友の若山牧水が主宰する短歌雑誌「創作」の詩歌欄を担当していたのだが、牧水が新しい行楽地ないしは保養地として人気上昇中の三崎を訪れたことを知り、足を運んでみる気になったのである。

〈いつしかに春の名残りとなりにけり昆布干場のたんぽぽの花〉『桐の花』

 南端の歌舞島で詠んだ一首である。じつは「味の素」の原料として採取されている搗布(ルビかじめ)を見て、昆布と勘違いしたのだが、後年地元で歌碑を建てるさい、「三崎ではウソとなるので、搗布に直せませんか」と相談されたころ、「歌のひびきから搗布には直せません」と、断ったというエピソードがある。

 それまで白秋は三崎に特別な地縁があったわけではなかった。当時は鉄道料金が高かったので、文人などが海浜に小旅行を試みるさいには、霊岸島(現、中央区新川)から房総半島、伊豆、大島あたりを周航する東京湾汽船会社(現、東海汽船株式会社)の定期便を利用した。小さな船だが、目的地の三崎には二時間もあれば着く。白秋にしても気分転換のつもりだったろうが、このとき人にいえない屈託をかかえていた。前の年の師走に、福岡の水郷柳川で酒造業を営む生家が、あえなく倒産したという報に接していたからだ。

〈廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける〉

 同じ歌集にある、故郷に一時帰ったときの歌。廃園というのは、おそらく生家の庭であろう。たんぽぽの色に逝く春を思い、過ぎ去った繁栄への感傷を重ねた作品で、三崎の昆布≠フ歌と同一線上にあるといえよう。

 五月の海の色、空の色よりも、憂いの眼には足許のたんぽぽのほうが気になったことだろう。しかし、白秋のこのころの憂いは、まだまだ甘いものであった。三年と四ヶ月後、白秋は再び三崎に舞い戻る。それも不快な罪名の衝撃に打ちひしがれながら……。

豪商の跡取りとして
 北原白秋は、明治十八年(一八八五)一月二十五日、福岡県山門郡沖端村(現、柳川市沖端町)に、北原長太郎とシケを父母として生まれた。本名は驪gである。異母兄が夭折したため、嫡男とされた。弟妹五人のうち、鉄男と義雄は出版社を経営して白秋を支えた。

 北原家は旧幕時代には立花藩(十一万石)の御用をつとめた海産物問屋で、祖父の代からは酒造業をはじめ、百数十人もの使用人を擁して九州一円を商圏におさめていた。白秋はこの豪商の跡継ぎとして、乳母日傘で育てられたが、生来虚弱なため「びいどろびん」と呼ばれていた。異国渡りの玻璃器のように、こわれやすいという意味である。

 現に二歳の夏にも腸チブスで死にかけ、乳母の必死の看病によって一命はとりとめたものの、感染した乳母のほうが身代わりになってしまった。このような病弱な体質から、内向的で読書好きな少年時代を送るが、たまたま柳川から二十キロ離れた母の実家で、外祖父の蔵書を自由に読むことができたのは幸運だった。石井業驍ニいうこの人物は横井小楠の流れを汲む篤学の士で、古典から近代の文学書にいたるまでの蔵書を誇っていた。白秋の文学者としての才能は、明らかに母方の影響を受けたものといえよう。

 小学校では神童扱いで、二学級を飛び越えて伝習館中学に入学したが、ここで思わぬ挫折が待ち受けていた。幾何の教師に睨まれ、落第を宣告されたのである。当時はどこの中学校でも、一課落第すれば進級できないというのがきまりだったが、滅多に実施されることはなかった。それが白秋に適用されたのは、同じ中学校に学んだ弟鉄雄の回想によると、教師が大の文学嫌いだったため、文学好きの白秋を目の敵にされただという。

 これによって白秋は勉学の意欲を失い、わざと落第点をとるようになったが、一方では友人たちと回覧雑誌を発行するなど、反抗的に文学にのめりこんでいった。筆名を考えるにあたって、あたまに「白」という共通の一字を置き、その下の字をクジ引きにしたところ、「秋」を引き当てた。深い意味はないが、姓の「北原」とは調和するし、「寂しい中になにか輝きがあるような気がして」、以後もそのまま号とした。

 文学の道に逸脱した息子を見て、父親の怒りは大きかった。ちょうどそのころ大火で酒蔵が全焼したのをきっかけに、家業が急速に左前となったことも、苛立ちの種となった。悪いことは重なるもので、折しも親友の中島鎮夫が「露探」(ロシアのスパイ)というあらぬ中傷を受け、自刃するという事件が起こった。日露戦争の前後の日本社会に発生した集団ヒステリーの犠牲になったのである。詳細は不明だが、白秋の精神状態が一層悪化したことはたしかで、不安を感じた母親が、白秋を卒業間際に伝習館から退学させ、父親に無断で東京へと送り出しのは賢明だったといえる。

 この場合、実際に世話を焼いたのは鉄雄だった。肝心の白秋は上り列車のなかで、これから下宿ではランプの掃除をどうするか、下帯の始末はどうすべきかなどと思案に暮れるばかりだったという。明治三十七年(一九〇四)、十九歳の春まだ浅いころであった。

一挙に詩壇の中心へ 
 白秋は中学時代までに、北村透谷『楚囚之詩』(一八八二)、島崎藤村の『若菜集』(一八九七)、与謝野晶子『みだれ髪』(一九〇一)などに代表される近代詩歌の勃興と展開という時期にめぐり合わせ、深い影響を受けた。したがって、上京後に早稲田大学英文科予科に入学したとはいえ、詩歌の道を目指す決意は定まっていた。

 学校付近の下宿に落ち着くと、若い詩人の登竜門「文庫」に長詩を投稿しているうちに、新詩社の与謝野寛の目にとまった。二、三度手紙で遊びにくるようにといわれ、ためらっていたところ、「ほととぎすは昨日も今日も人を待たせ候ものとぞ」というハガキをもらい、ようやく重い腰を上げたのだが、いざ会ってみると夫人の与謝野晶子からも丁重な扱いを受け、感激した。このとき持参した数編の詩が「明星」に掲載されたのを機縁に、白秋は新詩社に参加することになり、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木らと知り合う。

 明治四十年(一九〇七)夏には与謝野寛を郷里に招き、長崎や天草などの切支丹遺跡を案内した。吉井勇、木下杢太郎らも同行し、これを機に南蛮文学研究熱が高まったが、さらに新詩社の木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇らとかたらい、美術同人誌「方寸」の画家石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊らと合流、「パンの会」という懇談会を立ち上げた。「パン」はギリシア神話の音楽と舞踊を好む半獣神である。二十代の芸術家を中心に浪漫派の新芸術を語り合う目的で、月に数回、隅田河畔の西洋料理店に集合、気勢をあげた。

 明治四十一年十一月、廃刊になった「明星」の後を継ぐように、森鴎外を中心とする新しい芸術運動の雑誌「スバル」が創刊されたので、翌年その同人となった。こうした三年間の充実した時期の作品約百二十篇を、第一詩集『邪宗門』にまとめた。

〈空に真赤な雲のいろ。/玻璃に真赤な酒の色。/なんでこの身が悲しかろ。/空に真赤な雲のいろ。〉(「空に真赤な」)
 この小唄調の詩は、パンの会の会歌となり、宴たけなわになると全員が合唱した。

〈水透ける玻璃のうつはに、/果のひとつみづけるごとく、/わが夢は燃えてひそみぬ。/ひややかに、きよく、かなしく。〉(「わかき日の夢」)

 ちなみにこの詩集の巻頭には、父親への献辞として「父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。」という献辞が記されている。父親はこれを容れ、本書を知人や取引先に配った。