○寄稿再録

2017年11月21日

 北原白秋 小伝 (2)
松下俊子

松下俊子
無防備の恋愛に奔る
『邪宗門』を世に問うたころは、青春の絶頂期で、前途には洋々たる未来が開けているように思われた。勢いに乗り、二年後の明治四十四年(一九一一)、幼年時代からの回想をテーマとした『思ひ出』を上梓したのであるが、その間に白秋にとって重要な意味をもつ出来事が相次いで起こった。最も大きなものは、冒頭にもふれた生家の倒産で、白秋にとっては財政的な後ろ盾を失うという意味で大きな衝撃だった。

 現在でも事情は同じだが、白秋のように一挙に文壇の寵児となった作家でも、詩作だけで生計を立てることは容易ではなかった。第一詩集にしても半ば自費出版だったし、パンの会を中心とした活動も、懐中無一文では不可能である。結局母親からの送金に頼ることになったが、その出所が生家の庭に埋蔵されていた慶長大判だったというから、豪勢なものである。これを毎月三枚ずつもらい、一枚十七円で両替したが、現在の物価にすれば数十万円相当になろう。日本の近代文化の一端は、幕末明治の豪商、豪農から発したといわれるのも、肯けないことではない。

 もう一つの、より重要な出来事は恋愛である。白秋は中年にいたるまで、一つには生活不安定のため、頻繁に転居を繰り返したが、この年の九月にも牛込区(現、新宿区)新小川町から千駄ヶ谷原宿(現、渋谷区原宿)に引っ越したところ、ほどなく隣家の松下俊子という当時二十二歳の人妻と親しくなった。三重県の漢方医の娘で、その二年前に新聞記者と結婚、二歳の女児がいた。親のいうなりに一緒になった夫は粗暴で、日常的に虐待を受けていた。白秋としてはためらいもあったが、やがて一直線の情熱に変わった。はげしい心の動揺が、句集『桐の花』(一九一三)から、つぶさに窺われる。

〈君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ〉
〈君と見て一期の別れする時もダリヤは紅しダリアは紅し〉
〈ひなげしのあかき五月にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき〉

 この句集の末尾には「……悪魔のような魅力と美くしい姿……凡てが俺の芸術欲を嗾かし瞞らかし、引きずり廻すには充分の不可思議性を秘して居た、……」とあり、俊子に翻弄されつつも積極的に惑溺していく心理を告白している。あげくの果てに、二人は俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷の未決監に「三八七号」として二週間拘置された。

〈大空に円き日輪血のごとし禍つ監獄にわれ堕ちてゆく〉
〈かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の軋みてゆく礫道〉
〈鳩よ鳩よをかしからずや囚人の「三八七」が涙ながせる〉

 保釈には夫の要求する示談金三百円(現在の五百万円ぐらいか)を工面しなければならず、そんな大金は生家にもないので、弟鉄雄がおそらく出版社仲間から工面し(三木卓『北原白秋』)

八月十日の公判でようやく免訴放免となった。示談金を受け取った夫は、「金さえとれば用はない」と大笑したという。

〈監獄いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる〉

新生への悪戦苦闘
 事件は新聞にも悪しざま報道され、白秋は世間の指弾を浴びた。芸術家は世間の生き方とは無縁と思っても、現実に獄舎に投げこまれると、お坊ちゃん育ちには耐えられず、同時期の大逆事件の容疑者のような確信犯的な居直りは不可能だったといえる。姦通罪が廃止されたのは、白秋没後の昭和二十二年(一九四七)だった。

 翌大正二年(一九一三)一月二日、白秋は死を見つめながら三崎行きの船に乗った。暗い表情でデッキから海の色に見入っていると、波しぶきがかかった。すると近くにいた青年が、自分のハンカチを取り出して、丁寧に拭い、白秋が礼をいう間もなく立ち去った。白秋は知らなかったが、この青年は後に『雪之亟変化』(一九三四)で名をあげる三上於菟吉であった。白秋の窮状を知り、船上で見守っていたのある。

 再度三崎に降り立った白秋は、悄然と真福寺(現、三浦市白石町)を訪れた。そこに寄寓している公田連太郎に会うためだった。公田は島根県出身の漢学者で、山岡鉄舟の師白隠禅師と、奥羽戦役に従軍した漢学者根本羽嶽について学んだ。生来虚弱のゆえもあって定食につかず、漢書の注解をもって細々と生計を立て、「方寸」の石井柏亭ら親しい画家のアトリエの片隅で、静かに書を繙いていたが、能面の翁のような品位ある風貌だったという。白秋はパンの会を通じてこの人物と知り合い、たまたまこの年、三崎の真福寺からもらった年賀状に「一度遊びに来られたし」とあったのを思いだし、藁をもつかむ思いで門をたたいたのだった。

 このときの白秋のノートからは、公田から「おう」とにこやかに迎えられ、座敷でことばを交わす間も終始うららかな笑顔で、すべてを暖かいもので包まれる心地だったことが窺える(野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』)。当時まだ無名に等しかった碩学が、白秋立ち直りのきかけをもたらしたのであった。

 俊子とはいったん別れたが、この年の四月ごろ横浜南京町(現、中華街)でホステスをしているのを知り、三渓園入口近くの住まいを訪ねたりするうちに、責任を感じ、親の反対を押し切って入籍させた。このころ両親は倒産の余波で郷里に居づらくなり、一つには債鬼から逃れるために柳川を出てきたので、白秋としても詩作どころではなくなり、思い切って三崎の向ヶ崎町にあった通称異人館を借り、弟妹を含めた一族同居を実現した。

〈水あさぎ空ひろびろし吾が父よここは牢屋にあらざりにけり〉『雲母集』

 しかし、それも束の間だった。白秋の収入が途絶したため、父親から「貴様のような奴は歌詠みなんかやめて、車曳きになれ」といわれ、やむなく弟とイカの仲買商をはじめたが、たちまち悪徳ブローカーに欺されて大損を蒙り、これを機に一族は東京に去ってしまい、あとには白秋夫婦だけが残された。

異人館にもいられず、二町谷の臨済宗見桃寺に引き移った。ここで仕上げた歌曲が『城ヶ島の雨』である。日本に新しい音楽を建設しようとする島村抱月主宰の「芸術座」第一回音楽会のために、「舟歌を」と乞われて作詞したもので、白秋の歌に曲がついた最初のものだった(作曲と歌唱は梁田貞である)。
 当時の白秋の心境が投影された、暗い情調の歌謡だが、後半、雲間に晴れ間が覗くように曲調の変化を見せる一節がある。

〈船はゆくゆく 通り矢のはなを/濡れて帆上げたぬしの舟
 ええ、舟は櫓でやる 櫓は舟でやる/唄は船頭さんの心意気〉

 発表当時は不評だったが、六年後に奥田良三の歌うレコードが出て大ブレーク、城ヶ島の名は一躍全国区となり、白秋への忌まわしい記憶も吹き飛んでしまうほどの勢いだった。

童謡に転機を見出す
 作詞が当面は不成功だったので、白秋は妻の保養も兼ねて小笠原島に渡った。三崎で療養中の藤岡という姉妹を伴っての新天地開拓であったが、現地にはまったく受け入れられず、夫婦仲も破綻を来たし、帰京後に離婚した。足かけ三年十ヶ月間ほどの交渉だった。白秋はその後二人の妻を持ったが、俊子ほど運命的な関わりをもった女性はない。

 後半生の白秋は、大正四年(一九一五)弟鉄雄と自著を刊行するために阿蘭陀書房を立ち上げることから出発した(後、社名を「ARS}と改称、『白秋全集』全十八巻を刊行)。
 大正七年、小田原に転居後、鈴木三重吉の児童雑誌「赤い鳥」の執筆者として、数々の芸術的な童話を発表、官製唱歌の流行にくさびを打ち込んだ。

〈……からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ……〉『からたちの花』
〈海は荒波/向ふは佐渡よ/すゞめ啼け啼け もう日はくれた……〉『砂山』

 そのほか『ゆりかごの唄』『赤い鳥小鳥』『この道』『ペチカ』『待ちぼうけ』『雨』など童心の機微にふれた表現は同時に一種の国民歌謡となり、白秋にとっても新たな表現領域を開拓したという点で大きな意義があった。

 大正十一年は、中期の代表作『落葉松』が「明星」復刊号に掲載され、あらためて近代日本の孤と寂に根ざしたな抒情詩人であることを示した。
〈……からまつの林を過ぎて、/からまつをしみじみと見き。/からまつはさびしかりけり。/たびゆくはさびしかりけり。……〉

 翌年の大正十二年(一九二三)関東大震災で小田原の住居は半壊、ARSは延焼により大きな損失を蒙った。経営再建を図って『日本児童文庫』全七十六巻(一九二七)を出したが、菊池寛編集の興文社版『小学生全集』と競合し、企画侵害の訴訟合戦へと発展した。連日新聞一ページ大の広告をぶつけ合い、その中で白秋は「邪悪であります。陋であります。曲であります。ああ、寧ろ残虐であります。……菊池寛何者であります。寛の芸術何ほどであります」と、怒りをあらわにしたが、弱小資本の悲しさ、広告費ばかりがかさんで倒産に陥った。同年の芥川龍之介の自殺は、両者の調停役に疲れたためともいわれる。

 こえて太平洋戦争中は、児童向けの新聞雑誌に翼賛的な詩を精力的に寄稿した。

〈天に二つの日は照らず/凌ぐは何ぞ星条旗、/大詔くだる時まさに/此の一戦と衝き進む/疾風万里太平洋、/目指すはハワイ真珠湾〉『ハワイ大海戦』

 ナイーブな童心主義が、その純度のゆえに、かえって扇情的なナショナリズムの波動と重なったといえる。昭和十四年(一九三九)には、国策的な団体である日本文化中央連盟の依頼で、紀元二千六百年記念の交声曲詩『海道東征』を作詞したが、翌々年二月福岡日日新聞より文化賞を受賞、式参列のため家族と九州に赴き、三十数年ぶりに柳川にお国入りを果たした。また、この年には芸術院会員に選ばれたり、三崎ゆかりの見桃寺境内に歌碑の除幕式が行われるなど、慶事が重なったが、すでに健康はむしばまれつつあった。

 昭和十七年(一九四二)、糖尿病の合併症腎臓病が悪化し、一時回復したが、十一月二日自宅で息を引き取った。五十七歳であった。風雪の時代、無限に紡ぎ出される抒情と童心を糧に、日本人の人生を象徴的に表した詩人であった。

主要参考文献
神奈川県立近代美術館編『神奈川県美術風土記』(有隣堂、一九七一)、藪田義雄『評伝北原白秋』(玉川大学出版部、一九七三)、西本秋夫『白秋論資料考』(大原新生社、一九七四)、野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(慶友社、一九七七)、新潮日本文学アルバム『北原白秋』(新潮社、一九八六)、三木卓『北原白秋』(筑摩書房、二〇〇五)、川本三郎『白秋望景』(新書館、二〇一二)