○寄稿再録

2017年11月30日

 左右田喜一郎 小伝 (1)
左右田喜一郎

左右田喜一郎
 経済界の不祥事は跡を絶たない。いったい経済学は単なる実学で、倫理も思想もないのであろうか。
 ここにあげる左右田喜一郎は、経済学者であると同時に哲学者であり、毛在学の原理にモラルを取り入れようとした存在である。業績は未完に終わったが、いまでも心ある人を引きつけてやまない、パイオニア的な日本人の1人である。本稿は浜銀総研の機関誌“Best Partner”(1907年)に寄稿したものの抜粋である。
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 ハマの商家が生んだ思索の人
 文化の価値を究明し中道に斃る

    左右田喜一郎(経済学者・哲学者)

米びつに入っていたもの
 明治九年(一八七六)三月二日のことである。横浜関内の中心、本町と弁天通の間を東西に貫く南仲通は、開港後しばらくの間は日本人相手の日用品を扱う商店が建ち並んでいたが、いまや貿易の発展につれて両替商と売込商(絹物などの輸出品を外国公館に売り込む問屋)の看板が目立ち、馬車や人力車が頻繁に往来する繁華街となっていた。

 両替商だけでも二十軒以上あった。その真ん中あたりの南仲通三丁目に店舗を構えていた椎津安兵衛が、同業者から預かっていた一個の米びつが、いやに重いことに不審を抱き、そっと蓋を開けてみたところ、なんと札束がギッシリ詰まっているのを発見したのである。

 安兵衛は息が止まった。投機的な土地柄なので、現ナマは見慣れていたものの、これほどの額は見たことがない。思わず上のほうを取り出してみたところ、その下から別のものが覗いたので、今度は腰を抜かした。小柄な男子の遺体が現れたのである。

 警官が駆けつけた。検死の結果、遺体は同じ南仲通町一丁目の両替商松野屋の使用人(十五歳)と判明した。札束の額はしめて三千円。現在の米相場で換算すれば、優に二千万円をこえる金額となる。ほどなく犯人は米びつの所有者で、両銀売買渡世の雨宮忠右衛門という男と判明した。被害者が大金を第一国立銀行に預けに行くのを見て出来心を起こし、自宅に誘い込んで殺害したのだった。使用人は主人からの「絶対寄り道をするな」という戒めを破ったのである。戸部監獄場に収容された犯人は、即決裁判で斬罪に処せられた。

 事件は猟奇性のゆえに大評判とった。新聞小説や講談、芝居となって語り伝えられたが、反面、この事件の背景になった開港地特有の経済環境から、世界的な学者が一人生まれ育ったというようなことは、あまり話題にはならず、当時を知る人たちの間でもすぐに忘れられてしまったことと思われる。

富豪の家に生まれて
 明治末期から大正時代にかけて、日本に経済学の学問的基礎を据え、哲学および社会思想を形成した面でも高く評価される左右田喜一郎は、明治十四年(一八八一)二月二十八日、関内南仲通一丁目二番地の両替商「松野屋」の主、左右田金作と妻登里子の長男として誕生した。父の金作は嘉永二年(一八四九)上州鬼石(現、群馬県藤岡市鬼石)の商人、左右田金兵衛の次男として生まれた。

 この地方は古くから日野絹の集散地として栄え、幕府の直轄領として下仁田道や十国街道などとも直結していたので、金作も早くから進取の気性を培われ、九歳で隣村の酒造家の小僧となり、中仙道本庄の塩魚問屋に奉公したりということを繰り返していたが、十二歳の文久元年(一八六一)、横浜に出て郷里の知人である引取商(外国公館から輸入品を買い入れる問屋)に住込んだ。

 元来、生糸を中心とした商品は価格の変動が激しいので、間もなく主家の没落に遭い、その再興を誓って蚕糸の商いに転じたてみたものの、一向に芽が出ず、一時は露天商で糊口をしのぐ体たらくとなった。このままでは当時横浜に流入した多くの生糸売込商と同様、尻尾を巻いて逃げ出すほかはなかったが、その後中里商店という両替商に勤めたことが開運のはじめとなった。たまたま投機で得た二十五円を元手に両替商(洋銀中継業)をはじめたところ、これが大当たりとなったのである。

 そのころは輸出入ともに外国の通貨としての洋銀が通用していたので、日本の商人たちにとっては両替が必要であり、明治維新直後に三井八郎右衛門を頭取とした横浜為替会社が設立され、第二国立銀行へと発展した。外国の銀行も多数進出し、洋銀の市場相場も生まれ、先物取引のような投機が行われるようになったのは自然である。

 その中で、日本の両替商には前述の雨宮忠右衛門のような相場師も多かったが、左右田金作は着実に資本を増やし、明治元年(一八六八)にはには南中通りに両替商の看板を掲げるにいたり、六年後には生糸相場で知られた田中平八や西村喜三郎らと諮って横浜洋銀取引所を開設、その肝煎となった。さらに明治六年には東京兜町に松野屋株式仲買店を開き、明治九年には生糸相場の激しい動きを読んで巨利を博するなど、金融界の覇者として一目置かれるようになった。例の米びつ事件などは、ちょうどそのころに発生したものである。

 松野屋は、明治二十八年には資本金三十万円の合資会社左右田銀行に改組され、六つの支店を擁するまでになる。顧客に対して、腰の低いことで有名な銀行だった。このころになると、明治初期にあったという三十四軒の両替商はほとんど姿を消していた。

 左右田喜一郎は、このようにあわただしい金融街の雰囲気に囲まれて育ったはずだが、幼い目に強い印象をのこしたのは、文明開化の原風景だった。十二歳年下の作家獅子文六(一八九三〜一九六九)が白亜の洋館が建ち並ぶ町並や西洋菓子などに魅力を感じたように、左右田もまた瓦斯燈や洋書店、自転車などに強い関心を抱いたに相違ない。野毛月岡町(現、西区老松町)に別邸があったところまで共通している。

 富豪の御曹司であったが、知的関心が豊かであった喜三郎は、恵まれた環境のもとで学力を伸ばし、浜の学習院≠ニいわれた横浜小学校(戦災後、廃校)に入学の際、いきなり尋常科二年に編入された。したがって当時の制度だった尋常科四年、高等科四年を七年で卒業、十三歳で横浜商業学校(Y校)に入学した。ちなみに喜一郎は父親にまった似ていない貴公子然とした好男子だったので、じつは陸奥宗光の隠し子ではないかという、無責任な噂が流れたこともあった。

二人の師に育まれる
 横浜商業学校は現在の横浜市立横浜商業高等学校の前身で、明治十五年(一八八二)外国勢力に対抗する人材を育成することを目的に創設された。初代校長は福沢諭吉門下の美沢進(一八四九〜一九二三)である。美沢については、別に採り上げる予定であるが、備中川上郡(現、岡山県高梁市)に生まれ、同郷の阪谷朗廬に儒学を、上京して箕作秋坪に洋学を学び、さらに慶應義塾に転じて福沢の感化を受けた。その教育理念は、知育に偏することなく、人格の完成を目指すというもので、当時洛陽の紙価を高めたサミュエル・スマイルズの『自助論』(セルフ・ヘルプ)の原書を手に、自立と創造と海外ハッデン(「発展」の岡山なまり)≠説く気迫に富んだ授業は、学生たちに非常な感銘を与えたという。左右田の思想に内包される高度の倫理性が、この美沢の人間性に触発されたものであることは疑いない。

 すぐれた教師は、また厳しい教師でもある。入学のとき百人以上いた生徒も、卒業のさいには半分ぐらいしか残っていなかった。学業と並んで修養(徳育)と衛生(体育)も重視され、学業だけが満点でも他の二学科が悪ければ、総合成績で落第ということになるからであった。左右田も優等生にはなれなかった。

 卒業のさい、品行方正をもって修身実勢の表彰を受けただけである。体育については、授業はともかく、野球部や端艇部の創設に加わり、選手としても活躍した。とくにボートについては、建造費用四百五十円を部員仲間と分担しあい、平沼の造船所に三隻を注文している。公務員の初任給が五十円という時代であるから、左右田はいうまでもなく、富裕な商家の子弟が多かったことがうかがえる。

 このように充実した学生時代を過ごした左右田は、明治三十一年(一八九八)三月に同校の第十期生として卒業、東京高等商業学校(略称、高商)予科に入学した。現在の一橋大学である。通常の商家の子弟ならハマの大学≠ニいわれたY校卒で十分だったが、左右田は当然のように、より上級の商科学校に進学した。

 そもそも東京高商は外国語学校と合併して成立した関係で、語学教育にも定評があり、貿易科を出た者は商社に入るときまっていたのだが、左右田は家業を継ぐという目的から、予科一年、本科三年を経て最終的に銀行科を専攻したのである。

 左右田が学問に熱中しはじめたのは、本科三年(二十歳)のとき、同校出身で経済学の草分けとなった福田徳三(一八七四〜一九三〇)の授業「欧州比較経済史」を受講したことからである。福田は神田生まれの江戸っ子で、高商卒後ドイツのライプツィヒ大学やミュンヘン大学に留学、博士号を取得して帰国した。左右田はその初講義に接したのである。

 福田の講義は歯切れのよい東京弁だったが、非常な早口で、同学の学者をなで斬りにしたり、得意なテーマは詳細に、不案内な個所はどんどん飛ばしてしまうという調子だったが、学生に好学の風をよびおこすような魅力があった。慕い寄ってくる学生の中から、将来性のある者を見出す名伯楽でもあった。学長と対立し、一旦は慶応義塾に移ったが、そこでも小泉信三や高橋誠一郎らの俊秀を見出し、育成した。