○寄稿再録

2017年12月08日

 左右田喜一郎 小伝 (2)
ハインリッヒ・リッケルト

ハインリッヒ・リッケルト
私費でドイツに留学
 左右田は福田教授の講義に刺激を受け、「メルカンチルシステム(重商主義)に関する学説の展開」という大論文をものした。

「希臘羅馬の盛代を去る茲に十百載世は混沌として暗黒の境に沈み独り法王権を振るうて学術技芸の発達人文の発展之が為めに沮まれ、政治組織は古代の市府的国家より封建の制度となり徒らに君主其の虚位を擁して権を弄び、経済の制度は僅にハンザ同盟を見たるに終わる。圧せられたるもの焉んぞ伸びざらんや」という書き出しの論文に、福田は「意気軒昂の間に横溢する不撓の研究的精神と強気自信の閃き」を見て、明治三十六年(一九〇三)十一月号の雑誌「経済叢書」に掲載した。じつは師の学説を容赦なく批判していたのだが、それがかえって評価された。左右田はこのような理想的な師にめぐりあい、幸先よいスタートを切ることができたのである。

 学究となるには、しかし、家業をどうするかという問題があった。銀行を継いでもらいたいという父親との間に、多少の葛藤があったのは当然だが、左右田の志は固く、学問が富豪の息子の道楽ではないことが周囲の目にも明らかとなっていた。

 当時、脚光を浴びつつあった経済学を学ぶには、師の経歴をなぞるようにヨーロッパに留学し、一流の学者につくのが早道であった。早道といっても、私費で留学できるような者は稀だったことはいうまでもない。明治年間に先進国へ留学した青年は約二万四七百人に達するが、そのほとんどが官費によるものだった。

 明治三十七年(一九〇四)、アメリカ経由でイギリスに向かった彼は、ケンブリッジ大学に入学、新古典派を代表するアルフレッド・マーシャルについた。ちなみに、二学年下にはケインズが学んでいたが、顔を合わせる機会がなかったのは惜しむべきことである。

 それはともかく、左右田はケンブリッジに安住していなかった。半年経たないうちに不満を感じ、福田に「ドイツへ行きたい」と手紙を伺いを出した。早くからこのような事態になることを予想していた福田は、「フライブルク大学のグロッセという日本びいきの学者のもとで、一学期のあいだ様子を見たらどうか」とアドバイスした。

 左右田はこれに従い、翌年五月ドイツに渡り、フライブルク大学で経済学、法律学、国家学、哲学などを学んだ。それも経済学のカール・ヨハネス・フックスのゼミ(貨幣理論)で、ドイツ経済学の泰斗クナップの貨幣国家学説を批判する論考を発表して学界の注目を引いたり、哲学では新カント派のハインリッヒ・リッケルトのもと、当時の主流であったカントの世界観を学び、学問の方法論を身につけるなど、非常に実り多いものとなった。

 東洋美術の収集にも熱心なフックスは、夫妻で左右田を厚遇し、何くれとなく生活の便宜を与えられた。したがって、明治四十一年(一九〇八)、フックスのチュービンゲン大学異動に従い、左右田も当然のように移籍したのだが、翌年同大より博士号(国家学博士)を獲得し、フックスの厚遇にむくいることができた。弱冠二十八歳であった。

 その後左右田はベルリン大学を経てハイデルベルク大学に転じ、リッケルトとともに一年間を過ごしたが、そのあいだに著した邦文の『経済法則の論理的性質』は、間もなく日本の経済学の確立に大きな影響をもたし、学士院賞を受けることになる。とどまるところを知らない左右田の精進ぶりであったが、あたかもそのころ、左右田の下宿に、日本の恩師美澤から帰国を促す書簡が届いたのだった。それには美沢自筆の教育勅語とY校の校訓が同封されていた。

家業との板挟みに悩む
 ハイデルベルク大学は、ドイツ最古の大学で、周辺は『アルト・ハイデルベルク』に描かれたように、ルネッサンス様式の古城や神秘的な湖のある景勝地である。この夢のような県境下で、左右田が研究者としての青春≠可能な限り長く謳歌したいと考えたとしても、何ら不思議はない。ありていにいえば、故国のことなど忘れていたのである。

 しかし、左右田は美沢には逆らえなかった。留学もすでに八年になろうとしている。父親も還暦に達し、銀行業務も日露戦後の不況という厳しい段階に入っていた。貿易業だけで生産企業に乏しい横浜という経済圏の構造的な脆弱性は、そのまま左右田のような中小銀行の弱点でもあった。

 左右田はドイツに別れを告げることにしたが、ただちに帰国する気にはなれず、フランスに渡ってパリ大学とコレージュ・ド・フランスで哲学を学んだ後、重苦しい気分のまま、シベリア鉄道で故国に向かった。「西欧十年の遊学を卒え、花の都を見すてて帰る雁る雁の思いをなし、日に々々文化の中心を遠ざかる憂愁を抱きてシベリアの平野を東行し、再び故国の土」を踏んだのは、大正二年(一九一三)三月であった。

 帰国後すぐに高等商業学校の講師となった。もはや世界的な学者であるから、母校も専任教授として迎えたかったろうが、家業を捨てられない立場を考慮したのである。翌年一月付けで左右田は左右田銀行取締役と左右田貯蓄銀行取締役に就任した。左右田銀行経営の実務的部分は妹婿の左右田棟一に任されてきたのだが、翌大正四年(一九一五)に父金作の死去に伴って、左右田が両銀行の頭取の地位についた。

 身辺の変化が想像以上に大きかったのだろう、左右田はたちまち体調をくずした。横浜から東京への車中で盲腸炎を起こし、腹膜炎を併発して一時危篤に陥ったが、手術で一命をとりとめた。その後小田原の別荘に転地療養し、ようやく復帰したときは五月となっていたが、病み上がりをおして「カント認識論と純理経済学」、「経済政策の帰趨」という重要論文を発表した。

 まず、私たちが先験的に経済的「文化価値」という規範を有していることを前提に、その内容を実現することが「経済生活」というものであり、規範の実現にあたって特定の結果を生じさせようとする努力が「経済政策」であると説く。ついで、こうした努力の結果、経済的「文化価値」が客観的な妥当性をそなえつつ、実現するであろうと説くのである。経済学とは人間の何を認識するのか、概念の根拠は何かという点を科学的に問う作業で、前人未踏の経済哲学といえるものであった。左右田の初出版は、このような帰国後の論文を集めた『経済哲学の諸問題』(一九一七)である。

 同じ年、上杉直子(貴族院議員上杉茂憲の五女)と結婚、東京麹町上二番町(現、千代田区麹町一番町)の加藤弘之邸を購入し、書庫、書斎を完備して本格的な研究活動に備えた。英独の大学都市の書店から本を精力的に購入したので、当時留学した学生たちは、書店主から「おまえはドクター・ソーダの門下生か」と訊ねられるのが常だったという。

全財産を投げ出す
 以後、学者と教師と実業人という三つの世界を行き来する、多忙を極めた日々を送ることになるが、わずかな余暇を見つけては、乗馬や写真撮影に熱中した。ロダンにも凝って、自室や庭に彫刻を飾り、絵具で色彩を施したりした。愛娘にも本格的にピアノを習わせたり、展覧会に連れていったりした。

 しかし、そのような余裕も次第に失われていった。第一次大戦後の不況、米騒動、ストライキの多発を背景に横浜経済は一層弱体化し、中流以下の市民の零細な預金を基盤としていた左右田銀行は、徐々に経営を悪化させていったたのである。左右田は、低所得者層の困窮が資本主義の構造から生じると考え、米騒動後の大正八年(一九一九)に神奈川県救済会に参加、大口の寄付者となり、さらに県下最初の福祉施設である横浜社会館の竣工にあたり館長に就任、困窮者に衣食住を供給した、さらに横浜社会問題研究所を設け、共同研究の成果を『社会問題としての物価低落論』などの叢書(岩波書店)として刊行した。

 理論と実践の両面から地域の安定化に取り組んだ左右田はであったが、関東大震災(一九二三)に足許をすくわれ、銀行の建物や麹町邸の一切が灰燼に帰してしまった。この痛手を癒やす間もなく、同年九月、恩師美沢の訃報に接する羽目となったが、仮葬儀に奔走した上、翌年に延期された本葬儀には葬儀委員長をつとめ、無冠の美沢の業績を称揚した。

 この前後に帝国学士院賞を受賞、翌大正十四年には貴族院議員に選ばれているが、日を置かずして胃部に疼痛を覚え、胃がんと診断された。翌年末、東京帝大病院で手術を受けたが、開腹してみると、もはや手の施しようもないほど悪化していたので、そのまま閉じてしまった。療養生活のあいだ、家族が病因を伏せていたので、左右田自身は最後まで社会復帰を信じ、見舞客が訪れると身体を拭き清め、端然とした羽織袴姿で応対したが、時折「もし快癒したら、余生をカントの頁に上に送りたい」と漏らすこともあったという。

 しかし、その願いは空しかった。昭和二年(一九二七)三月、未曾有の恐慌で左右田銀行は二六五六万円の負債を生じ、倒産した。左右田は「世間に迷惑をかけて、まことに相済まぬ」と、頭取と社会問題研究所の所長以外は一切の公職を辞し、全財産を投げ出し、破産手続きや事後収拾の指揮にあたったため、病状はとみに悪化し、ついに同年八月十一日、麹町の自邸で帰らぬ人となった。四十六歳であった。多磨霊園に葬られた。

 晩年、金策に追われ通しだった左右田は、やはり思索の人であった。そのことばに「思想の自由なき国に文化ありとは考えぬ」というのがある。近代思想史の中でも、徹底的に論理の人であった彼は、合理的な論理を展開を阻害する「頑迷思想」には、文化史上何らの使命をも果たすことができないと、強く批判した。

 左右田にとっての人間の努力目標とは、芸術、学問、道徳、経済などの文化価値(順位や序列なく、すべて並列)を創造するという一事にあった。その文化には人格の尊厳がということが不可欠で、国家主義、功利主義に支配されるとき、文化は衰退すると考えた。戦前は権力に、戦後は市場主義に支配されてきた日本文化の姿を直視すれば、左右田思想がいまなお新しいことを思わざるを得ないであろう。

■参考文献
左右田喜一郎『文化価値と極限概念』(岩波書店、一九二二)、杉村廣蔵「左右田博士の学者的風格」「一橋論叢」(一橋学会、一九四八・一一)、早瀬利雄「文化につくした人――左右田喜一郎博士のこと」『神奈川県の歴史(人物篇)』(神奈川県立図書館、一九五九)、小田切秀雄編『ヒューマニズム』<現代日本思想大系・第17巻>(筑摩書房、一九六四)、南博編『大正文化』(勁草書房、一九六五)、馬場啓之助『左右田喜一郎論』「一橋論叢」(一橋学会、一九六五・三)、左右田博士五十年忌記念会編『左右田哲学への回想』(創文社、一九七五)、服部一馬「左右田喜一郎と社会問題」「神奈川県史だより・資料編13」(神奈川県、一九七七)、斎藤慶司『左右田喜一郎伝』(有隣堂、一九八八)