○寄稿再録

2017年12月26日

 岡倉天心 小伝(1)
岡倉天心

岡倉天心
 日本美術の研究と、東京芸術大学の創設で知られる岡倉天心は、近代日本を代表する思想家の一人として、もっと広く、深く知られてもよい存在といえる。代表作『茶の本』は、岩波文庫の売れ行きの常に上位にあるが、天心の振幅の大きな思想は一概に総括することを許さない。本稿もその行跡と個人的な側面をたどった入門的なものに過ぎないことを、お断りしておきたい。
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    開港地に根ざした国際感覚
    世界に掲げた日本伝統の美

    岡倉天心

英語に浸かった少年時代
 岡倉天心は、文久二年(一八六二)十二月二十六日、横浜に生まれた。場所は関内でもにぎわいを見せていた本町の物産商「石川屋」で、その角の蔵で産湯をつかったことから角蔵と名付けられた。現在横浜市開港記念館(中区本町一丁目六番地)の付近に、「岡倉天心生誕之地」という碑が建てられている。

 父親の勘右衛門は福井藩の納戸役だったが、横浜開港とともに藩主松平春嶽に抜擢され、藩籍を脱して生糸や羽二重など越前の物産を扱う商人となったのである。天心はその次男だが、母親の「この」は長男の港一郎が病弱だったこともあり、次男の出産に際しては、年末のあわただしい住まいを避け、静かな蔵を産室とした。それが角蔵という本名の由来だが、平俗さを嫌って後年自ら覚三と改めた。天心という号は、胸の贅肉を手術で除去した跡が「天」の字に似ているという理由からである。
 多くの外国人とふれあう環境なので、七、八歳のころから当時の外国語学習のメッカだったヘボン塾やブラウン塾で英語を学びはじめたばかりか、ブラウンが関わった野毛山下の高島学校に入学、ジョン・バラーからも手ほどきを受けた。六歳下の弟に後年の著名な英学者由三郎があるところを見ても、語学の才能には先天的なものがあったようだ。

 九歳で母を喪ったため、天心は神奈川の長延寺に預けられると同時に、漢籍を学んだ。これは天心が簡単な漢字も読めないでいることを知った父親の配慮であったというが、一時兄妹から引き離された天心は誤解し、乳母に「ほんとに僕はお父さんの子なのかい。僕には誰か別にお父さんがあるのじゃないのかい」と訊ね、困らせたという。この常という名の乳母は、福井藩の開国派志士・橋本左内に仕えた人だったので、天心は左内の業績や人となりを繰り返し聞かされ、子ども心に大きな影響を受けた。
 
 しかし、横浜で送った少年時代は十一年間で終わった。明治四年(一八七一)勘右衛門は春嶽の意向で本町の店を閉じ、日本橋蛎殻町は旧藩邸の所有地の一角を与えられ、そこで旅館業を営むことになった。天心はといえば、父親の方針通りに官立の東京外国語学校に入学、さらにに抜群の語学力を発揮して開成学校に進み、それが明治十年(一八七七)東京帝国大学と改まった際には文学部を選び、政治学、理財学、歴史学、英文学などを修得した。

「文学」といっても、当時は文科系の学問一般をさしていたのである。この間、女性画家の第一人者奥原晴湖について日本画の初歩を身につけ、森春濤から漢詩を、加藤桜老からは琴を修得するなど、趣味教養の分野でも天分を伸ばしている。
 つまり、天心は感受性の豊かな少年期を横浜という環境で過ごしながら、気質的に日本趣味、東洋趣味を育んでいたということができる。あわせて外国人(列強)が日本人を見下すような租界的な光景に、子どもなりの違和感を覚えていたかもしれない。

姿を現した千年の秘仏
 東京帝国大学では、中世英文学者のウィリアム・ホートンや動物学者で大森貝塚を発見したエドワード・S・モースなどからはすべて英語で授業を受けた。とりわけ後年の天心に大きな影響を与えたのがアーネスト・フェノロサ(一八五三〜一九〇八)だった。米マサチューセッツ州に生まれ、ハーバード大学を出たフェノロサは、先に来日したモースの紹介で東京帝国大学のお雇い教師となり、ヘーゲル哲学や政治学を講じたが、その彼を美術史家に転じさせた理由は、当時の欧化風潮のもと、日本の伝統芸術が無視され、衰退しつつあるのを知ったことにある。

 元来フェノロサという人は、ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことからもわかるように、絵画彫刻に並々ならぬ造詣を有していたが、明治十一年に来日しておどろいたのは、上下をあげての欧化風潮に災いされ、浮世絵は露店でたたき売りされ、写楽などは一枚一銭でも買い手がつかず、仏像にいたっては廃仏毀釈の影響か、由緒あるものが廃棄同然の扱いを受けていることだった。

 これを捨ててはおけないと、フェノロサは啓蒙的な講演会などを催す一方、友人の医師ウイリアム・S・ビゲローと語らって散逸しかけている日本画や彫刻を購入し、ボストン美術館に寄贈したが、その収集活動にあたって学生の天心を通訳に起用したことから、天心自身も日本美術に深入りすることとなったのである。

 ちょうどそのころ、天心は大岡越前守の傍系にあたる士族の娘元子(後に基子)と結婚した。家が微禄して、娘が腰掛茶屋に給仕女として出ていたのを、勘右衛門が旅館の女中にと引き取ったのであるが、数え年十四歳のお幼妻で、必ずしも天心にふさわしい教養の持ち主ではなかったようで、まだ新婚気分が抜けきらないころ、些細な痴話喧嘩から、天心が渾身の力を込めて完成した卒業論文(『国家論』)を破り、燃やしてしまったことがある。天心は激怒したが、落第だけは避けたいと、急遽テーマを『美術論』に変更、二週間という短日月で書き上げたが、後年冗談半分に「あれはまったくママさんの焼餅が祟ったのだ。その結果、成績は尻から二番目、しかも一生この『美術論』が祟って、こんな人間になってしまったのだ」と述懐していたという。

 明治十三年(一八八〇年)七月、天心は十九歳(満十六歳七ヶ月)で大学を卒業すると、文部省の音楽取調係(後、東京音楽学校を経て東京藝術大学音楽学部となる)に出仕するようになった。月俸四十五円は当時の尋常小学校教師の数倍という高給だったが、音楽教育の欧化を推進する校長の伊沢修二と反りが合わず、ほどなく内記課に転出させられた。その後まもなく天心は新しい上司の九鬼隆一(一八五〇〜一九三一)を調査団長に、フェノロサも加わって、京都や奈良の古寺の調査旅行に出るが、法隆寺で夢殿の調査を申し出たところ、寺僧から「ここは開かずの扉で、明治初年に開いたところ、雷鳴が轟いたという前例がある」と拒まれた。

 後の天心の回想によると、「雷のことはわれわれが引き受ける」と無理に開けさせたころ、寺僧みなクモの子を散らすように逃げ去る。「開けばすなわち千年の鬱気紛々鼻をうち、ほとんど耐うべからず。像高さ七、八尺ばかり、布ぎれ等をもって幾重となく包まる。人気に驚きてや、蛇鼠不意にあらわれ、見る者をして愕然たらしむ。やがて近くより布を去れば、白紙あり、先に開扉のさい、雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙のかげに端厳の御像仰がる。じつに一生の最快事なり」

 これは学生相手の講述を、後に『日本美術史』としてまとめたものだが、多少の誇張があるとされている。しかし、生涯を古美術の探求と啓蒙に捧げた天心の、事態をあえて潤色したくなえる気持もわかるような気がする。

浮沈のはげしい官僚の座
 明治十九年(一八八六)、天心は文部省の美術取調員として、フェノロサとともに欧米出張の旅に出た。往路はフランス、イタリア、スペイン、ドイツほかの美術館を回ったが、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、フランスの印象派など現代美術にはあまり感銘を受けなかったらしい、その上、身につけていた新調の背広を紋付き羽織に着替えてしまい、帰途に寄ったアメリカでは、米国駐剳特命全権公使になっていた九鬼から、厳しい訓戒を受けた。

 しかし、約九ヶ月間の出張は、日本美術がけっして欧米に比して劣るものではないという自信を植えつけた。明治二十二年(一八八九)東京美術学校が開校されたときにも、洋画科を閉め出すよう主張、さらに窮乏生活を送っていた友人の画家橋本雅邦(一八三五〜一九〇八)を教授に推挽し、その翌年自らの校長任命と同時に、東西文明の中に日本画を位置づける美術史の講義を行った。生徒の第一期生には横山大観、菱田春草、下村観山らが加わっている。日本および東洋美術の研究誌「國華」を創刊したのは、明治二十二年であった。

 天心は校長として烏帽子、直垂姿となり、教師や生徒の制服も和服とした。明治前期の欧化主義の反動として、世はあげて国粋主義の時代に入っていた。天心自身もその一翼を担ったわけだが、本質的に政治的主張ではなく、伝統文化の再発見とその国際社会への強力な発信をめざす、美学的、哲学的なナショナリズムであったといえよう。しかし、このような相違は当時の人々に理解されたとはいえないし、天心の行動や表現にも気負いがあったことは否めない。欧米文化の中でローカルとみなされていた東洋、日本の文化を表舞台にのし上げるためには、なお曲折が必要だった。

 明治二十六年(一八九三)七月、天心は助手とともに中国奥地へと向かい、現地人の服装で遺跡探訪の旅にのぼり、約四ヶ月を費やして落陽、長安、成都ほかの古都を回った。ほとんどの地はすでに荒廃し、洛陽の南にあたる竜門の大石窟を発見したほかは具体的な収穫に乏しかったが、中国(清国)文化に関する豊富な情報や知見を得て、帰国後は早稲田、慶応、高等師範学校などでも東洋美術史の講義を行うようになった。官吏としては高等官三等、従五位まで昇進したこのころが、天心の絶頂であった。

 中国から帰国したころから翌年秋にかけて、天心は恋愛事件に翻弄される。相手は九鬼隆一の夫人波津子であった。京都祇園の出身とされるだけに魅力に富んだ女性で、アメリカの社交界では公使夫人としての評判も上々だったが、じつは夫との性格不一致に悩み、精神の安定を欠くようになっていたので、夫をのこして帰国することになった。ちょうどそのとき、欧米視察の最後にアメリカに立ち寄った天心が、夫人の日本帰国にあたって付き添い役を依頼されたのである。途中は何事もなかったが、帰国後二人の間は急激に接近し、天心の夫人に対する同情は熱烈な恋愛に変わった。しかし、夫の隆一は貴族としてのプライドから頑として離縁を認めず、ついに夫人は家を飛び出すという事態となった。

 これを奇貨としたのが、天心の反対派だった。若くして権力ある文部官僚の座についた天心は、その才腕を駆使して改革を実行していったが、順調に行き過ぎて、脇を固める配慮が不足していたため、西洋画を軽視する教育方針や、強引な人事への反感が内向しているのに気づかなかったのである。果然、天心の素行を攻撃する怪文書が出現した。そこには天心の女性関係が波津子にとどまらず、近親(異母姪さだ)の間にも生じていることが暴露されていたので、文部省は天心の弁明を聞く必要もないと考え、さっさと彼を「非職」にしてしまった。要するに追放である。

 元子夫人とも破局寸前となった天心は、しかし、やけ酒を煽る以外に何の方策もないまま、相手の波津子は精神を病んで病院に収容され、数年後に死亡が伝えられた。じつはその後四十年余の昭和六年(一九三一)年まで生きながらえたのだが、そのことを天心は知らず、深いトラウマだけがのこされた。

 なお波津子と隆一との間に生まれた周造は、幼いころから自分は天心の子であると信じて育ち、後にハイデガーの影響を受けた哲学者として、名著『「いき」の構造』(一九三〇)をのこした。祇園の芸妓を二番目の妻としたことも、学者としては型破りだったが、生い立ちを考えると納得がいくように思われる。