○寄稿再録

2017年12月31日

 岡倉天心 小伝(2)
プリヤムヴァダ・デージー・パネルビー

プリヤムヴァダ・デージー・パネルビー
「アジアは一つである」
 天心が辞職すると、教員画家二十四名も袂を連ねて辞表を提出した。そのうち、橋本雅邦、菱田春草、横山大観、下村観山ほか十七名は当局の慰留説得にも応じなかったので、懲戒免職となった。天心は自らの住居に近い谷中初音町(現、台東区谷中五丁目)に、「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的とした日本美術院を創設、天心に随った画家たちを評議員として、制作や研究のほか、国宝の修理・営繕の請負事業もはじめた。建物は木造二階建て、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなる大きなもので、出費は、ビゲローの寄付によってまかなった。

 制作活動は絵画を主とした。従来の線条を使用する日本画独特の流儀に反対し、色彩を中心とする洋画の構成手法をとり入れた。黒田清輝ら洋画壇への対抗意識から、顔料なども厳密に伝統的なものに限定することにより、日本画の新しい展開を試みた。その結果、菱田春草の『雪中放鶴図』のように、変化に富む色彩の独自な表現に成功した例もあるが、世間からは「泥絵」や「朦朧派」といった嘲罵が浴びせられたにとどまった。地方に市場を求めようとしたが、天心のネームバリューは通じなかった。

 明治三十五年(一九〇三)一月、天心は急遽日本を出ることを思いついた。まずカルカッタに到着した彼は、郊外のハウラに住む高僧ヴィヴェカーナンダに会い、釈迦が教えを説いた旧蹟ベナレスや、アジャンター、エローラの二大石窟を探索、古代インド文明の偉大さを認識した。さらに詩聖タゴール家の次兄にあたるサチェンドラナートを訪ね、その周囲の愛国的な青年(ベンガルの志士)たちと交流するうちに、彼らのイギリス植民地からの離脱願望に対し、強い共感を抱くようになり、インド滞在中に折節ペンを執って無題の文章(英文)を綴った。これが没後二十余年を経て発見され、昭和に入ってから翻訳、活字化された『東洋の目覚め』(執筆、一九〇二)である。

「アジアの兄弟姉妹よ!」という呼びかけにはじまるこの草稿は、欧米帝国主義の支配に甘んじる東洋の覚醒を促すのが目的だった。それも政治的要求より、まず詩的レトリックによる革命的情感の喚起を意図し、その根柢に明治維新に成功した日本人としての自負がみなぎっていた。「失望落胆の夜の帳を押しのけて、太陽は再び東方の空に輝き始めた。遂に摩耶(釈迦牟尼の生母)は破られたのである! 日の光は揚子江奥地の谷々にも輝き亙り、その光線はメーコン河の漣にきらきらと映える。不惜身命の四千万の島国民(注、日本国民)がこの偉業を成し遂げたのである。どうして四億の支那が、三億の民を有するインドが、どうして掠奪的な西欧の侵害のままになっていてよいものか」(富原芳章訳)

 天心が主要著作のすべてを外国人向けに英文で記したのは、そのほうが生色に富んだ、力強い形容や論理展開が可能と信じたこともあろう。「アジア主義」といわれる天心の思想が、具体的な形をとりはじめるのは、このときからである。

「アジアは一つである」という書き出しで有名な『東洋の理想』がロンドンで出版されたのは、日露戦争の前年 明治三十六年(一九〇三)である。直接インド青年向けに記した前述の草稿とは異なり、東洋美術、日本美術を手がかりに西洋文化の欠陥を指摘し、再生の希望を論じる。「……今日は、大量の西洋思想がわれわれを混迷させている。

 われわれの言い方をすれば、大和の鏡は曇らされている。維新とともに、日本は、たしかに、その過去に立ち返り、そこにこの国が必要とする新しい活力を求めている。……いまこの時、それは一大強化を必要とするものであることを、われわれは求めなければならない。と言うのは、近代的俗悪の焼き焦がすがごとき旱天が、生命と芸術の咽喉をからからに渇かしているからである」(同上)

偶然に発掘された珠玉の恋文
 この本はインド滞在中に刊行されたが、日本では「内からの勝利か、それとも外からの強大な死か」という結語にも、目立つ反応はなかった。英文で書かれたためもあるが、天心自身も、政治につがるような行動には一切関心がなかった。

 以後の天心は、活動の拠点を海外にシフトさせる。まずボストン美術館から招かれ、大観、春草ほかを伴って渡米、ボストン美術館の東洋部顧問を委嘱され、日本の美術品二万余点の整理にあたった。美術品収集家のイザベラ・ガードナー夫人と親交を結び、大観や春草の展覧会を催すなど、日本美術普及に大車輪の活動を行った。

 この旅行に船出した当日が、まさに日露戦争の開戦日だったので、アメリカでも日本の進出≠ェ話題になり、当然天心としても一言せざるを得なくなり、ペンをとった結果が第二の著書『日本の目覚め』(一九〇四)である。西洋の帝国主義的を批判する一方、日本の民族主義的な覚醒、独立を正当化した内容はともかく、朝鮮支配を歴史的に正当化するような部分が目につくのは時代的な制約で、後年軍部に利用される隙をつくった。
 しかし、天心の真意は西洋文化の支配する現実において、日本および東洋文化の優秀性を認識させ、均衡を図ることにあった。明治三十九年(一九〇六)、ボストン美術館から招聘される直前、彼は茨城県五浦に土地を買い入れ、帰国後に六角形の堂を建設、読書と瞑想の拠点とした。大観、春草、観山に木村武山らも「正員」としてこの地へと移住し、研究員としての安田靫彦、今村紫紅、橋本雅邦ほかの有力画家の頻繁な往来も見られるようになった。このような充実した環境下で構想された著作『茶の本』(一九〇六)は、西洋的合理主義や価値観とは異なる視点、すなわち東洋哲学(道教や禅)の感性を通じ、茶道というものの再構築を試みた比較文化論である。

「茶道とは俗事に満ちた日常生活の中にあって、美を崇拝することに基づく一種の儀式なのである。それは純潔と調和、相互愛の神秘、そして社会秩序のロマンチシズムを人々の心に植付ける。茶道の本質は『不完全なもの』を崇拝することにある。いわゆる人生というこの度しがたいものの中に、何か可能なものを成就しようとするやさしい試みなのであるから」(桜庭信之訳)

 古代中国からはじまった茶の歴史が、日本の生活の中で洗練され、日本文化の象徴となるまでの解釈には、高踏的、直感的な一面もあるが、比較文明論の視野から、単なる案内書では覆いつくせない茶道文化のひろがりを見事に把握した名著といえよう。
 五浦日本美術院の活動と『茶の本』の執筆で、天心の公的な生涯は終幕に近づくが、その後にフィナーレを飾るにふさわしい、詩と真実≠フ挿話が続く。大正元年(一九一二)最後のインド訪問で知った詩人、プリヤムヴァダ・デーヴィ・バネルジー(一八七一〜一九三五)への熱烈なプラトニック・ラブである。詩聖のタゴールの血筋を引くこの詩人は、清楚な姿と「宝石のような声」をもって天心を魅了しつくした。この女性に対し、天心は生涯で初めて孤独な内奥を吐露する。

「みんなは私が社会に立ち向かうために、勇敢というお面を被ったり、自己の力に頼りすぎる人間であることをご存じないのです。それどころか、私はどんなちょっとした動揺にも震える小胆な臆病な人間なのです」(一九一三・三・四)、「人間であること、何よりもまず人間らしい人間であること、そうなることのほうが、社会の主人公になることよりも、ずっと本来の意義があるものと思えるのです」(六・二八)

 大正二年(一九一三)九月二日、天心は五十二歳で世を去った。十九通におよぶデーヴィ宛ての恋文は、彼女の没後も篋底に秘められていたが、ようやく第二次大戦後十年以上を経て、現地に赴いた仏教文化研究者・春日井真也により偶然に発掘され、日本に伝えられたのであった。


◆主要参考文献
清見陸郎『先覚者岡倉天心』(アトリエ社、一九四二)、岡倉一雄『父天心』(叢文閣、一九四二)、宮川寅雄『岡倉天心』(東京大学出版会、一九五六)、斎藤隆三『岡倉天心』(吉川弘文館、一九六〇)、春日井眞也『インドと日本(二)』(「仏教大学研究紀要」一九六五・三)、明治村編『岡倉天心記念展図録』(明治村、一九六七)、色川大吉編『岡倉天心』(中央公論社『日本の名著[三九]』、一九七〇)、松本清張『岡倉天心 その内なる敵』(新潮社、一九八四)、大岡信『岡倉天心』(朝日選書、一九八五)、大岡信・大岡玲編訳『宝石の声なる人に』(平凡社ライブラリー、一九九七)、坪内隆彦『岡倉天心の思想探訪』(勁草書房、一九九八)、大原富江『ベンガルの憂愁』(ウェッジ文庫、二〇〇八)