○寄稿再録

2018年01月13日

 若松賤子 小伝 (1)
若松賤子

若松賤子
 小伝シリーズも回を重ねているが、今回は明治初期の女性翻訳家、女子教育家の一人、若松賤子をとりあげたい。もと浜銀総合研究所発行“Best Partner”に寄稿したものである。参考文献は第2回の末尾に記載する。
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動乱の会津から新開地の横浜へ
異国文化に育まれて女性作家に

若松賤子
                       
数奇な星の下に
 若松賤子の本名は松川甲子(のち嘉志子)という。甲子は生まれ年の干支に由来し、「若松」は出身地の会津若松に因む。「賤子」については後述するが、いずれにせよ幕末の会津に生まれたことは、成長期の少女にとっても苛酷な運命を免れないことを意味していた。

 元治元年(一八六四)、旧暦の三月一日、会津藩士松川勝次郎の長女として生まれた。母の名はわかっていない。出生地も会津ではなく、京都であった可能性がある。というのは、藩主松平容保が京都守護職に任ぜられたさい、勝次郎も従者として上洛していたかもしれないのである。役職は公用人物書だが、実体は諸藩の動静を探る隠密役であった。そのため姓を島田としたので、賤子自身も成年まで「島田かし子」と名乗っていた。

 勝次郎はその後羽伏見の戦いに加わり、さらに会津の戦場を経て、函館五稜郭に転戦している。幼い賤子の脳裏には、二歳年下の妹とともに両親に従い、鳥羽伏見の戦いを目撃しながら、会津へ逃げ帰った記憶がのこったという。

 明治二年(一八六九)会津藩は消滅、藩士とその家族一万七千人余は本州最北端の荒蕪地斗南に移住した。当然、賤子も両親に伴われたが、翌年母親が病死するという悲運が重なり、ついに会津藩出入りの横浜商人、山城屋和助の番頭大川甚兵衛方に養女に出されることになってしまった。そもそも会津藩の武器や資金調達に、横浜の豪商が関わっていたとしても不思議ではない。この大川は横浜の絹織物商らしい羽振りのよさを誇るあまり、一夜福島で豪遊したさい遊女数人の境遇に同情、まとめて身請けしたが、そのさい身寄りのない一人を後妻にしたのである。ただし、彼には先妻の娘がいた。

 賤子が入っていったのは、このように複雑な家庭だった。初めは可愛がられたようだが、すぐに性格の相違が明かとなった。後年の回想によると、賤子のちょっとした行為が義母から姉妹喧嘩のあてつけと誤解され、ヒモで縛られて厳しく折檻されたことがあって、そのさいの「子供心の当惑と口惜しさは、今に骨髄に浸み徹って忘れられません」とある。温厚で冷静な賤子であるが、この義母のことは「母に非ず、子を持しことなき人」と激語して憚らなかった。日常的によほどのことがあったにちがいない。

 養父の大川も困惑したのか、このころ元町二丁目の住居から至近距離にあったヘボンの施療所内に、アメリカの女性宣教師が塾を開いているのを幸い、使用人の付き添いで通学させることにした。当時の女子にしては破格の待遇だが、これによって賤子は早くから外国文化にふれる結果となったのである。

母親がわりの女教師 
 アメリカはヴァーモント州出身の女性宣教師メアリー・キダーが、改革派教会の海外伝道局ジョン・M・フェリスの推薦により来日したのは、明治二年(一八六九)八月だが、当初の使命である新潟伝道を一年間つとめた後、翌年の九月から横浜のヘボン施療所で少人数の子どもたちを教えることになった。これはヘボンの妻クララが預かっていた生徒を引継いだものだったが、当初の生徒数はわずか二名で、一ヶ月後にようやく七名(男子四名、女子三名)になるという、きわめて小規模の塾だった。

 それでも、ヘボン夫人によって初級リーダーの読解や綴り字ぐらいの基礎はできていたので、キダーはその上に聖書や賛美歌を教え、さらに簡単な手芸などを手ほどきした。おそらく彼女の人柄も手伝って、「キダーさんの学校」が評判になり、ついには時の神奈川県令・大江卓が、娘と妻の教育を託すまでにいたった。賤子が入学したのは開校後間もないころで、最初はいやいやながらだったようだが、養家から逃れるために施療所に寄宿することもあったらしい。

 しかし、賤子が寄宿生として落ち着くまでには、なお四年の歳月が必要だった。学校が女子の足では通えない野毛に移転したこともあるが、何よりも大川の主人山城屋和助が、長州閥を背景とする陸軍の公用金運用に失敗、割腹自殺を遂げるといった不祥事が発生し、とばっちりを恐れた大川一家が、横浜から立ち去ったからでもある。

 その四年間に、ミラーの側にも大きな変化があった。まず、九歳年下の、しかも宗派の異なる宣教師ローゼイ・ミラーと結ばれたが、その結婚式に生徒を招待した。結婚が男女の自由意思で成立することの意味を、日本の家族制度のもとに育った子女に十分理解されたとは思えないが、にもかかわらず西洋の儀式、それも敬愛する師の厳粛なセレモニーには、後々の人生に影響するような、深い感動を受けたことは疑いない。

 一方、彼女は本格的な女子教育の基盤として、学校用地の確保に奔走し、アメリカ領事を通じて山手一七八番地の地所を借り受けることに成功、さらに教会資金を獲得して寄宿舎月の校舎を建設し、明治八年(一八七五)フェリス・セミナリーを開校した。
 十一歳になっていた賤子は、寄宿生として復学した。寄宿費は三ドルだが、賤子を助手とすることで五ドルの報酬を与えることとし、その財源は同校支援者の寄付により賄った。

 賤子はもはや養家に戻る必要もなく、その気もなかった。明治九年(一八七六)横浜海岸教会で、二名の日本人女性とともに受洗し、その二年後にはフェリスの日曜学校の教師として、自分よりも年下の子どもたちの指導を担当するまでに成長した。学校をわが家とする彼女にとって、キダーは何でも相談できる母親のような存在となっていった。

稀に見る天賦の才能 
 しかし、賤子にとって予想外だったのは、キダーが休養のために一年間帰国し、再度の来日後にあっさり学校経営から手を引き、東京での布教活動に移行してしまったことである。賤子の失望は想像に余るものがあった。一時は退学も考えたが、キダーに代わる二代目学長が優れた識見と実践力の持ち主であったことから、気を取り直して学校に残ることにした。新学長は改革派教会の青年教職ユージン・ブースで、就任後ただちに校舎の修復と拡張に着手し、カリキュラムも整備し、修業年限を定めるなどの大改革を実施した。

 授業も外国語による宗教や文学の知識にとどまらず、日本の歴史や古典(国文学、漢文など)についても、当代の女子教育の水準を超えるものをめざした。ブースの目的の一つは、キリスト教精神に基づくリーダーシップの養成にあったので、学問知識の吸収ばかりではなく、それを対外的な発表の場で公にすることを奨励した。演説の指導にしても、まず大きな身ぶりで表情豊かに話すよう求めた。生徒がテレ笑いでもしようものなら、「あなかたがたは今はそうして笑っているが、いつなん時、国家のため、立って弁論せねばならない場合が来るかもしれぬ。あなたがたはその時、勇敢に堂々と話さねばならぬ」(尾崎るみ『若松賤子 黎明期を駆け抜けた女性』)と𠮟咤するのだった。

 明治十五年(一八八二)六月、第一回卒業式が挙行された。卒業生は賤子(大川かし子)ただ一人で、その流暢な英語の演説は来賓に深い印象を与えた。五、六歳のころから英語の小説を読み始めた彼女は、このころにはディケンズやブロンテ姉妹をはじめとする文学作品を読みこなし、会話もネイティブに伍して引けをとらない学力があった。ブース学長が目をかけたのは当然といえよう。「彼女は印象的な人物でした。ほっそりとしているけれども姿勢がよく、身長は平均より高く、きゃしゃな肩が大きな頭を支えていました。顔は丸みを帯び、知的な顔立ちで、注意深く目ざといけれども穏やかな目からは、稀に見る天賦の才能を授けられた魂が見えるようでした」と、十数年後の回想録に記している。

 卒業後、賤子は母校の国語教師に就任した。作文に重点を置き、三年後に「時習会」というサークルを組織し、月一回作文の朗読を行わせた。これが意外に好成績だったので、活動内容を「時習会雑誌」として発表したところ、ちょうど創刊されたばかりの「女学雑誌」の寄書欄に転載された。

 賤子はそこに「文運隆盛な世に生まれてきた幸せとして、私たちは昔の人が得られなかった教育を受けている。とすれば、古人にない責務を有するわけで、それは一生懸命学んで天恩に報いることである。ここに時習会を設けたのも、筆紙によって意を述べ、口演により志を表すことで、あたかも論語の『学んで時にこれを習う』のごとく平素の学業を深め、高い成果をあげるためにほかならない」という意味のことを記している。

 ちなみに、この雑誌に寄稿するとき、初めて「若松しづ(賤あるいは賤子)」という筆名を用いた。若松は前述の通り会津の地名だが、賤子は神の下僕を意味していた。