○寄稿再録

2018年01月21日

 若松賤子 小伝 (2)
巌本善治

巌本善治
夫は気鋭の活動家
 このように急激に存在感を発揮しはじめた賤子の前に、若い男性が現れた。海軍中尉の世良田亮という洋行帰りの独身エリート軍人だが、妹がフェリスに通学していたことから賤子と顔見知りとなった。ときに賤子は二十二歳。ブース校長も好意的に見守るなかで、自然に婚約まで進行したのであったが、どうしたことか、間もなく破談になってしまった。

 理由は明らかにされなかったが、後年の賤子の生き方から推測できることは、自らが強く望む物心両面の自立が、伝統的な結婚のあり方からは保証されないことを、いまさらのように気づいたからではないだろうか。このさい、養家をめぐる複雑な事情は無関係だった。同じころ、実父は賤子を大川家の籍から抜いて、松川家に復帰させたからである。

 身辺の重要な案件が解決したせいか、賤子は英文学の紹介や翻訳、翻案、創作のほか、婦人問題についての評論にも手をひろげた。その発表舞台は、明治中期の時代風潮を先取りし、女性向け啓蒙誌として出発した「女学雑誌」だった。創刊後日ならずして文学や思想を視野に置いた総合誌に成長したが、その推進者となったのが巖本善治である。

 巖本は文久三年(一八六三)但馬国(兵庫県)に生まれ、上京して中村正直の同人社に入学、二十歳のとき下谷教会の木村熊二牧師(幕臣出身で新約聖書の翻訳委員の一人)によって受洗し、キリスト教活動に従うようになった。卒業後は農業雑誌の編集にたずさわるが、植物改良から人間改良へ、さらに女性の天性を啓蒙すべしという思想展開の中で、明治十七年(一八八四)六月「女学新誌」を、ついで翌年に近藤賢三らと「女学雑誌」を創刊、また同年九月には木村により創設された明治女学校の教師に迎えられた。女性論の代表は、アメリカの法律家フランシス・ケレーの『女の未来』を翻訳紹介したものである。

 賤子は「女学雑誌」を読んで感動し、自分のほうから巖本を訪ねた、巖本も彼女の生き方や志に共鳴し、交際がはじまった。結婚式は明治二十二年(一八八九)七月にとり行われた。善治二十六歳、賤子二十五歳。新婦は英詩を新郎に捧げた。「われら結婚せりと人は云う/また君はわれを得たりと/然らば、この白きベールをとりて/とくとわれを見給え/……われは誇り高くして 借り物を身につけず/君は新たに高くなり給いてよ/若しわれ 明日きみを愛さんがためには/……」(乗杉タツ訳による)

 巖本は三年後に校長に就任、教師陣に北村透谷、島崎藤村、星野天知ほか気鋭の文学者を揃えて自由主義的な教育を実践、「女学雑誌」上では清新で力強い議論を展開した。結婚三ヶ月後、賤子はフェリスを退職し、翌年長女を出産した。しかし、このとき身体はすでに病魔(肺疾患)に蝕まれつつあった。

画期的な本邦初訳
 若松賤子の文学活動は約十年に過ぎないが、最も知られた業績は『小公子』の翻訳である。原題は"Little Lord Fauntleroy"。原作者フランシス・イライザ・ホジソン・バーネット(一八四九〜一九二四)はイギリスに生まれ、十六歳でアメリカに移住した小説家・劇作家である。
『小公子』は一八八六年に雑誌『セント・ニコラス』に発表された児童文学だが、主人公のセドリックとともに、その母親エロル夫人のキャラクターも人気を博し、たちまち五十万部を売り上げるベストセラーとなった。賤子はこの翻訳を明治二十三年(一八九〇)八月発行の「女学雑誌」に連載しはじめた。原作発表後四年目で、早いほうである。じつはほとんど同時に別の邦訳も出はじめていたのだが、永続しなかった。

 アメリカの下町に母と暮らすセドリック少年は、あるとき思いがけなくも自分がイギリスの名家(伯爵家)の末裔であることを知る。そもそもセドリックの亡父は伯爵の三男で、母と駆け落ち同然に結婚したのだが、最近にいたって伯爵の嗣子が父親を含めて全員死亡したため、セドリック以外に後継者がなくなったという。

 セドリックは悩んだ末、母親とともにイギリスに渡るが、いざ老伯爵に会ってみると、痛風病みの頑迷な人物で、セドリックの母親に対しても、三男を誑かした女性として許そうとしない。一時は途方に暮れたセドリックだが、持ち前の清純な性格と機転により、少しずつ相手の閉ざされた心を開くことに成功する……。日本の子どもが、必ず一度は親しむであろう物語である。

 賤子による訳文の冒頭は、つぎのようになっている。
「セドリックには誰も云ふて聞せる人が有ませんかつたから、何も知らないでゐたのでした。おとつさんは、イギリス人だつたと云ふこと丈は、おつかさんに聞ゐて、知つてゐましたが、おとつさんの歿したのは、極く少さいうちでしたから、よく記憶して居ませんで、たゞ大きな人で、眼が浅黄色で、頬髯が長くつて、時々肩へ乗せて坐敷中を連れ廻られたことの面白かつたこと丈しか、ハツキリとは記臆てゐませんかつた」

 当時の口語表現が駆使されている。「〜ませんかった」というのは明治半ばごろ普通に用いられていた。江戸語の「ませなんだ」と「なかった」が混同したものとされる。 
 もう少し例をあげよう。父親の死んだ直後、よそへ遣られていたセドリックが帰宅し、やつれた喪服姿の母親に話しかける場面がある。

「かあさま、とうさまはモウよくなつて?。
と、セドリツクが云ましたら、つかまつたおつかさんの腕が震へましたから、チヾレ髪の頭を挙げて、おつかさんのお顔を見ると、何だか泣度様な心持がして来升た、それからまた、
 かあさま、おとうさまはモウよくおなんなすつたの?。
と同じことを云つて見ると、どういふ訳か、急におつかさんの頚に両手を廻して、幾度も\/キスをして、そしておつかさんの頬に、自分の軟かな頬を推当て上なければ、ならなくなり升たから、その通りして上ると、おつかさんが、モウ\/決して離ないといふ様に、シツカリセドリツクをつかまへて、セドリツクの肩に自分の顔を推当て、声を吝まずにお泣なさい升た。
 ソウだよ、モウよくお成りなすつたよ、モウスツ‥‥スツカリよくおなりなのだよ、ダガネ、おまへとわたしは、モウふたり切になつてしまつたのだよ、ふたり切で、モウ外に何人もいないのだよ。と曇り声に云れて、セドリツクは幼な心の中に、アノ大きな、立派な、年若なおとつさんは、モウお帰りなさることがないのだといふことが、合点が行ました」

 母子の愛情表現の中で、子どもの慧敏な性格を浮き彫りにした原作の呼吸を、賤子は自分の全感性をもって引き取り、言文一致体で表現してみせる。

 明治中期ごろまで、文章といえば文語体だった。二葉亭四迷が小説『浮雲』(一八八七)や、その翌年のツルゲーネフ原作『あひびき』の翻訳などにより、言文一致体の緻密な文学表現を実現してから、まだ二、三年しか経っていない。翻訳もの一般には徐々に言文一致体が行われていたとしても、『小公子』のように地の文まで大胆に<です、ます調>を採用したものはなかった。

 ちょうどこの時期に出現した巌谷小波の『こがね丸』(一八九一)を見ても、近代的児童文学の開祖とはいえ、「むかし或る深山の奥に、一匹の虎住みける。幾星霜をや経たりけん、躯世の犢よりも大く、眼は百鍊の鏡を欺き……」というような古風な文語体で書かれ、内容も相応の教訓的な説話の世界を出なかったのである。
 
明治文化の忘れ形見
 賤子の翻訳は平明で、訳語の選択が的確だった。英詩の翻訳にもすぐれたものが遺されている。「言葉を探すのは、恰度女が半襟を出してみて、あれかこれかと迷うようなものだ」と友人に語ったことがあるというが、そのような感性は、幼少のころから東西文化の接点ともいうべき環境に身を置き、彼我の文化や風俗習慣の落差を、日常的に言語をもって埋める必要性に迫られた者にとって、第二の天性といえるものであったろう。

『小公子』は文壇からは激賞され、連載開始後一年ほどを経て、前半部分が美装で刊行されたが、当時は年少読者に十分行き渡ったとはいえなかった。これ以前から賤子は児童文学を中心に成人向け創作をも手がるようになり、かなりの量の作品を発表、作家としての飛躍を期していたに相違ない。中島(岸田)俊子らとともに、婦人運動への関わりも深めようとしていたのだが、それらを阻んだのが前述の肺疾患であった。

 当時は欧化熱が潮のように退いて、女子教育や婦人運動への風当たりが強まり、女学校への入学希望者も減少、明治女学校も開校以来の危機に見舞われていた。そのような状況下で賤子の病状は転地療養の効なく進行、第四子を妊るころには不眠症に悩まされるようになっていた。夫が出産を止めるよう説得したが、「ナポレオンが生まれるかも」と冗談に紛らし、準備をはじめた矢先であった。明治二十八年(一八九五)二月五日、深夜の失火で校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を失ったのである。

 賤子の衝撃は大きなものがあり、五日後の二月十日、午後一時半に息を引き取った。満三十二歳に充たなかった。訃報に接した樋口一葉は「訪はばやとおもひしことは空しくて けふのなげきにあはんとやみし」という悼歌を捧げた。

 『小公子』の続篇は、明治三十年(一八九七)に前篇と併せて刊行された。また六年後には夫の編纂により、英文の女性論などを集めた"A Woman of New Japan"(新日本の女性)と創作および翻案二十二篇を収めた遺構集『忘れかたみ』とが出版された。表題作は賤子の愛誦した女性詩人アデレイド・プロクター原作の「船乗り少年」という詩を翻案したもので、実の子に母親と名乗ることのできない女性の悲哀が、惻々と胸を打つ。

<母>こそは賤子の短い生涯を支配するキーワードだった。
 片や巖本善治の苦闘は続いた。都下豊島郡巣鴨(現、豊島区西巣鴨二丁目)に移転、立て直しに努力したが、ついに力尽き。明治四十二年(一九〇九)に閉校を余儀なくされた。その後は実業に転じ、昭和十七年(一九四二)八十歳で没した。

 賤子への評価は戦後、とくに七〇年代以降に高まり、研究者も増えた。「その活躍した世界の大きさは、明治の文学者の中でも抜群である。一葉と同列に置いてしかるべき人」(小玉晃一)という声さえある。

■主要参考文献 巖本善治『女の未来』(与論社、一八八七)、島本久恵『明治初期の三女性―中島湘煙、若松賤子、清水紫琴』(厚生閣、一九四〇)、笹淵友一編『女学雑誌・文学界集』『明治文学全集32』(筑摩書房、一九七三)、若松賤子刊行委員会編『若松賤子 不滅の生涯』(共栄社出版、一九七七)、小玉晃一 敏子『明治の横浜』(笠間書院、一九七七)、山口玲子『とくと我を見たまえ』(新潮社、一九八〇)、尾崎るみ『若松賤子創作童話集』(久山社、一九九五)、巖本記念会編『若松賤子 不滅の生涯』(日報通信社、一九九五)、"In Memory of Mrs.Kashi Iwamoto"『叢書女性論1』(大空社、一九九五)、『女性作家集』『新日本古典文学大系 明治篇』(岩波書店、二〇〇二)、尾崎るみ『若松賤子―黎明期を駆け抜けた女性』(港の人、二〇〇七)、横浜プロテスタント史研究会編『横浜開港と宣教師たち』(有隣新書、二〇〇三)