○寄稿再録

2018年01月27日

 美澤進 小伝 (1)
美澤進(胸像)

美澤進(胸像)
 黎明期の横浜人物シリーズともいうべきこの連載、教育界を代表する人物の一人として、福沢諭吉門下の美澤進をとりあげたい。高校野球の世界で「Y校」として知られる横浜商業の創設者であるが、私事ながら私が十歳の折に生き別れになった父親が大正中期の同校に学び、美澤の薫陶を受けたということにも関係がある。
 もと浜銀の機関誌“Best Partner”に寄稿したものである。
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時勢に感じて郷里を出奔
港都に根づかせた商業教育
   教育者 美澤進

                       
                       
横浜商人の地位向上
 港に浮かぶ三本マストの蒸気船。海岸通りを散歩する外国人。屋上に各国の旗をなびかせた白亜の商館――。錦絵に描かれた明治の横浜は、いかにも華やかでエキゾチックな魅力に満ちているが、こうした光景の裏には日本商人たちの屈辱的な思いが渦巻いていた。

 当時の日本は国際的な不平等条約に悩まされていた。治外法権のため、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されず、関税自主権がないため、輸入税率が一〇パーセント超に対し、輸出税率はわずか五パーセントという低率に甘んじなければならなかった。

 もとより外交によって解決すべき課題であったが、貿易業務に間接的にしか関わることができない横浜の商人や実務家たちにとっては、さしあたり外国商人と対等に立ち働くことこそ焦眉の急であった。大福帳では複式簿記に立ち向かうことはできない。語学力はもとより、法律知識や近代的な商取引のセンスまでを身につける必要がある。

 このような人材を一から養成するために、商業教育の必要性を説いたのが、有力な生糸売込商の一人小野光景であった。信州(長野県)出身、開港と同時に横浜に出て生糸貿易に従い、明治初期には小学校創設に、ついで教員養成のための師範学校の設立にも関わった。その過程で港都にふさわしい商業学校の建設を考えるようになった。同じ貿易商組合の茂木惣兵衛、西村喜三郎らの賛同を得て、県庁に商業夜学校の設立を願い出たのが明治十一年(一八七八)六月だったが、翌月認可が下りて開校にこぎつけた。

 当初は予算も少ない小規模の夜学校のため、生徒数はわずか二、三人に過ぎなかったようだが、尋常小学校ですら生徒集めに苦労した時代だから、小野はあわてず騒がず様子を見ながら、施設拡大のための寄付金集めに動いた。

 私立である以上、自前で資金をつくるほかはない。それも地元から集めることが必要とあって、本町外十三ヶ町立という枠組みで寄付を募ったところ、四年後には八千余円に達したので、思い切って構想を全時制の商業学校へと発展させ、本町の町会所(現、横浜市開港記念会館)内に新しい教室を設けた。これがY校すなわち横浜商法学校(現、横浜市立横浜商業高等学校)のはじまりである。

 発足にあたって小野が悩んだのは、校長をだれに依頼するかであった。教師の人材難は圃場名ものだったが、じつは夜学校の教授をきめるさい、丸善創業者の早矢仕有的から福沢門下の高力右衛門を紹介してもらった経緯があるので、再び同じ手づるを頼ることにした。早矢仕が福沢諭吉の右腕小幡篤次郎に諮ったところ、ただちに三菱商業学校に在職していた門人美澤進を推挙された。福沢はこの話を聞いて、「それはよい。美澤は聖の聖たるものだ」と賛同したという。最も人格が高潔な人物という意味であろう。

 ところが、いよいよ開校式の当日、全員が顔合わせを行ったところ、教師五人に対して学生はわずか四人しかいないことがわかった。その場にいた波多野重太郎という三菱商業卒の英語教師が、すっかり退け腰となり、「僕はやめます」と申し出たところ、美澤は静かにいった。「君がやめるというのならば、やむをえない。しかし、僕は最後の一人になるまでやる」。波多野は美澤の表情の中に、武士が戦場に臨むに等しい強固な決意を見て取ったという(『美澤先生』一九三七)。

若様の一大決心
 美澤進はペリーが浦賀に来航した嘉永二年(一八四九)十一月十日、備中川上郡手荘村字三沢(現、岡山県高梁市川上町三沢)に、三沢繁三郎と妻みつの長男として生まれた。山間の農業地帯で、家は酒造業を営み、建物内には藩主の御成部屋があるほどの大庄屋だったが、進が誕生したころには父親の浪費によって家運が傾きかけていた(ちなみに美澤姓に変わったのは明治元年ごろという)。

 家の事情もあってか、進の就学はかなり遅れ、阪谷燧Iの経営する興譲館(現、興譲館高等学校)で儒学を学んだのは文久二年(一八六二)、十三歳になってからだった。進と同じ川上郡出身の燧Iは、最初大坂の儒者奥野小山の門に入ったが、遅鈍≠フ烙印をおされて退学を余儀なくされ、大塩中斎(平八郎)に拾われて発憤、江戸に出て古賀?庵のもとで儒学を修めた。遊歴を好み、たまたま備中西江原に滞在中、その学問を慕う地元の有志に乞われて、私塾の主宰者となったのである。

 進がここで学んだのは五年間であるが、燧Iの持説である開国論、海外発展論の影響を強く受けたこともあって、時代の大きなうねりを日ごとにひしひしと感じるようになり、修了年限に近づくころ、思い切って両親に江戸に行きたいと口に出したところ、一言のもとに斥けられてしまった。

 進はいったんは諦めたものの、敬愛する燧Iが興譲館を去り、年号が明治にかわるころには、もはや鬱勃たる向学心を抑えかね、ついに二十三歳に達した明治五年(一八七二)四月、近くの成羽に芝居を見に行くと偽り、そのまま出奔してしまった。
 とはいえ、交通機関が皆無の当時、足だけが頼りの山中突破は容易ではなかった。まず成羽から高梁までの道を北上、ついで高梁川沿いに南下した。岡山市内までの行程四十六キロ。このとき進の嚢中には長い間に貯めた八十円という金があった。米十キロが三十六銭という時代だが、東京での生活を考えると無駄にはできない。

 まだ底冷えする山中で野宿を重ねつつ岡山市内に入った彼は、親戚が経営している酢の販売店に両親への手紙を托し、先を急いだ。そのとき不在だった伯母夫婦は、帰宅して仰天、従業員に後を追わせた。

 家にいれば「若様」と呼ばれ、体質も頑健とはいえなかった進にとって、岡山からさらに七十五キロ東方の明石まで歩くのは容易ではない。やっとの思いでたどり着いたものの、そのまま宿屋にころげ込んだきり、三日間も動くことができなかった。その間に追手は明石を通り越して兵庫(神戸港)の旅籠を探しまわり、空しく引き返した。

 兵庫からは海路品川へ。到着するや直ちに備中で藩家老や郡長をつとめていた人物を頼った。「下働きなら置いてやる」ということで、その日から炊事、洗濯から何でもでも引き受けたが、じつは若様には飯炊きの経験すらなく、毎日がヘマの連続だった。

一時は自殺まで考えた
 居候をしながら浜町(現、東京都中央区日本橋蛎殻町)にある簑作秋坪の洋学塾、三叉学舎に通いはじめた。郷里の両親も折れて、学資として三十円を送ってきたが、進にはさらなる難関が待ち構えていた。

 慣れない横文字を前にするたびに、迷路に迷い込んだように、一字も読めない。机を並べている十歳以上も若い生徒からは馬鹿にされ、嘲笑される。その屈辱に耐えられず、ついに神経衰弱となってしまった。現在のノイローゼである。

 悩んだあげく、塾の付近を流れる浜町川に身を投げてしまおうかと真剣に考えたこともあった。この様子に気づいたのが松井という塾監だった。進の苦悩を知った彼は声をはげまし、「君は死ぬ気なら、なぜ学問と心中せぬのか、なぜ字引と差し違えないのか。そのあげくに死んだのなら、君の親も満足するだろう」と意見したのである。

 翻然と悟った進は、以後同輩の学生の二倍も三倍も勉強に励んだのはよいが、今度は睡眠時間を二時間しかとらなかったため、栄養不良で視力が衰え、ついに書物の文字が一本の棒のようにしか見えなくなり、ドクター・ストップを宣せられた。しかし、猛勉のおかげで、二年後にはさらに高い教育を求めて転校を考えるまでになった。そのころ世評の高かった福沢諭吉の『学問のすヽめ』を読んだ可能性もある。

 明治八年(一八七五)、二十六歳のとき、美澤進は芝二丁目(現、港区芝二丁目)の慶應義塾に入学した。福沢人気を反映し、在校生は三百人にふくれ上がっていた(翌年には美澤の親戚犬養毅も入学した)が、制度も十分整わない時期とあって、学生の年齢も様々で、美澤のような苦学生も多かった。

 美澤は服装に意を用いる余裕がなく、夏冬を通じて同じ珍妙な服装で運動場にも出たので、口さがない塾生から「オバケ」というアダ名をつけられたが、一向意に介することなく新知識の吸収に励んだ。もっとも塾生仲間と交わらないということはなく、三叉学舎時代から非常な議論好きで、一度相手を見つけると甲論乙駁、飽くことを知らない。銭湯に行く途中、往来の真ん中で議論をはじめ、袂から財布をすられて気がつかなかったというエピソードもある。

 二年半後に卒業、美澤は福沢から当時神田錦町にあった三菱商業学校(慶應義塾の分校的な教育機関)の校長に推薦され、就任した。弟子の長短をよく見ることで知られた福沢は、地味な努力家である美澤を教育者向きと考えたのであろう。横浜商法学校の校長に推薦する際に、「君には別に欠点というべきものはないが、ただ議論するのはいかん。この点をつつしめ」と忠告したのは、あまり喧しすぎる議論が教育現場にふさわしからずと考えたからであろう。

岡山弁と美澤英語
 当初町会所内に設けられた商法学校は、二年後には生徒数が百五十一名に増え、五年後に火災に遭ったものの、美澤の機敏な処置で即日仮校舎が設けられ、「少しは休める」と思っていた学生たちをがっかりさせた。間もなく焼け跡の北仲通五丁目(現、中区北仲通五丁目)に長屋風の校舎が建てられたが、外壁は節だらけの下見板(羽目板を少しずつ重なり合うように張ったもの)、天井板は間に合わせの、生徒の落書がいっぱいというお粗末なもので、「豚小屋」というのが通称だった。

 しかし、授業内容は急速に充実してきた。科目は商業、英語、漢書に大別されたものを予科二年、本科三年で学ばせた(大正期には一時七年制となった)。とくに複式簿記に力を入れたほか、十五年後には税関、郵便局、電信局、売込問屋、引取問屋、為替取引所、株式取引所、両替商、仲買店、小売店などの現場に行かせて、商業実習を行わせるようになった。東京や大阪にあった三個所の商業講習所とも連繋し、たがいに船会社や通信社など模擬的な役割を分担、文書往復や取引などの練習を行わせた。このような努力が内外に認められたので、明治二十一年(一八八八)には名称を横浜商業学校に改めた。

 最も特色を発揮したのは、美澤校長みずからが担当する英語の授業だった。原書はサミュエル・スマイルズの成功者列伝『セルフ・ヘルプ』(自助論、一八五九)である。明治四年(一八七一)、『西国立志篇』の名で中村正直により翻訳され、序文の「天は自ら助くる者を助く」ということばが福沢の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」ということばと並んで、青年に立志の心を掻き立てた、名著中の名著である。美澤は慶応時代にこの翻訳か原書に親しんだのであろう。そして、自助≠ニいう観念こそ新時代の青年にふさわしい徳目と信じ、教科にとりいれようと考えたことと思われる。

 当時の講義風景を想像してみる。「第五課、ヘルプス・アンド・オッポロチューニチー、すなわち人間能力の補強とその機会ちゅうことだ。ネイザー・ザ・ネイクド・ハンド、ノア・ザ・オンドロスタンデング、レフト・ツー・イットセルフ、カン・ヅー・マッチ。ええかな、人間は素手にせよ、理解能力をもっとるにせよ、せえだけではええ結果を出すこたあできん。ザ・ウオーク・イズ・アッコンプリッセド・バイ・インストロメント・アンド・ヘルプスっちゅうこたあ、補助器具を利用せんと、人間の仕事は達成できんっちゅう意味だ。けえ(これ)はエゲレスの哲学者ベーコンのことばじゃが、ええかな、ベーコンのゆうん(いっていること)は道具が機能を高めるように、精神の道具、つまり学問も理解力を補強するっちゅうこたあ。結局学問は道具じゃろうが。この一節は学問の意味を問うとるんじゃ」

 ヤマ場にさしかかるにつれ、独特の岡山弁や英語の発音はいよいよ冴えた。最初は苦笑していた学生も、この迫力には引き込まれ、背筋がピンと伸びた。訳読ばかりでなく、修身を兼ねた授業は、生意気盛りの学生の心をも強くうったのである。

 単なる実務の習熟?ばかりでなく、「ファーストレイト・マン・オブ・ビイジネスト」(一流の実業紳士)と呼ばれるにふさわしい人間をつくることが、美澤の最大の目標であった。

 明治三十年(一八九七)には自ら校則を起草し、毎朝生徒の前で力強く朗唱した。「一、正直……専ラ正直ヲ確守シ決シテ人ヲ欺ク可カラザルコト。一、機敏……業務ヲ処スルニ敏活ニシテ機ヲ視テ勇進シ理ヲ視テ断行シ決シテ遅疑スベカラザルコト、一、注意……一小細事ト雖必ズ留意注目シ決シテ等閑ニ付スベカラザルコト」。このほか、勤勉、正確、緻密、整頓、精察、謹慎、耐忍などの実践的な徳目がズラリと並べられていた。