○寄稿再録

2018年02月03日

 美澤進 小伝 (2)
『自助論』の著者スマイルズ

『自助論』の著者スマイルズ
生徒はわが子同然 
「人間は一生、書生気を失ってはいかぬ。常に読書して知を進め、徳は之を身に体して行い、体は日常運動を継続して鍛錬すべし」(『Y校五十周年記念誌』)というのが美沢の信念で、机にかじりつくばかりでは、将来激務に耐える社会人とはなり得ないという考えから、まず柔道と剣道を正課とし、続いて部活動として短艇(ボート)、野球、庭球などを積極的に奨励、企業からの寄付金や校友会費から賄った。

 一般にスポーツなどは遊戯の一種に過ぎないと考えられていた当時、非常に進んだ考えだった。学生は喜んだが、部に入ると必然的に学業がおろそかになるので、試験間際になると教師の家に、偶然に通りかかったふりをしておしかけ、「なんとかしてください」と頼み込むなど、要領≠必要としたらしい。

 美沢は明治四十三年(一九一〇)、学業も運動も優秀な学生に、ポケットマネーから美沢皆勤賞(年一回)を創設したが、これは遅刻一度でもアウトとなるため卒業証書をもらうよりも難しく、明治三十五年(一九〇二)本科卒の碩学左右田喜一郎(経済哲学者)でさえ、野球部と短艇部に所属したせいか、在学中一度も受賞できなかったほどである。

 美沢の日常は規則正しいものだった。早朝五時に起床、麦湯に塩を加えたもの飲んでから、冷水摩擦と柔軟体操を行い、ついでパンと牛乳と鶏卵の朝食をとる。それから手紙を飽いたり、新聞に目を通したりした後、フロックコートに山高帽、小脇にはこうもり傘といういでたちとなり、家人の「行ってらっしゃいまし」という声に送られて学校に向かった。傘はにわか雨のさい、学校の使用人を煩わさないためであった。

 校舎は明治三十八年(一九〇五)、南区南太田の清水耕地(現、南太田二丁目)に移転したが,自宅からの距離は、学校の通用門さえ利用すれば至近のところを、大岡川に沿って迂回し、校長らしく威儀を正し、ズッシ、ズッシと正門から入るのだった。この間、毎日一分もちがわなので、町の人々は「いま校長さんが通ったから、七時半だな」と、時計がわりにしていた。

 八時始業、午前中は予算編成などの業務を行い、正午にはその一時間前に自宅から届けられる弁当を開いた。大正六年(一九一七)米騒動の際には、白米に挽割り麦、それに政府が急きょ輸入したラングーン米を混ぜたものを食した。ただし、おかずは肉類を重視した。「日本人が粗食に甘んじているのは、体質向上の上で考えるべきことだ。牛を食って馬のごとく働け」と、美沢流のジョークをとばしたこともある。

 弁当については、もう一つ挿話がある。明治時代には学生も社会人も、昼には帰宅して昼食をとるのが一般で、Y校も例外ではなかった。たまたま校舎が北仲通にあったころ、近所の今川焼屋が、うまい上に一銭五厘という手頃な値段なので、昼になると生徒が狭い店内にひしめきあい、中には四個も五個も食べて昼飯がわりにする者も出てきた。これを知った美沢は、「今後は家の遠近にかかわらず、必ず弁当を持参するように」と命じ、今川焼については何もいわなかった。結果として生徒は昼の時間に余裕ができ、運動場にも出るようになり、自然今川焼から遠ざかった。

 美沢にとって、生徒はわが子同然であった。服装の乱れや喫煙を厳しく叱責された生徒も、翌日にはケロリと温顔で接してくれるので、自然に反省し、「おやじ」と慕うようになった。就職の世話はもとより、社会に出てからも親身に相談に乗った。「海外ハッデン(発展)」を説いただけに、何よりも外国へ進出した卒業生が気がかりだったようで、出がけに手紙などがくると、フロックコートの内ポケットに入れて登校するのが常だった。
 
右にペン、左に剣
 美沢はかねて「国に武力がなければ、商売も思うようにできない。右にペン、左に剣を提げて外敵にあたる覚悟が必要である」と考え、学科では兵式体操を採用、上級生には軍装で市中行進をさせ、春秋には郊外で演習を行わせた。当時の一年志願兵制度に対しても、生徒が無難な主計(経理)を志望するところを、あえて本科(実戦訓練)を志願させた。

 日露戦争に際しては「死生を顧みず、職責を遂行せよ」と九十七名を送り出したが、うち十二名は還ってこなかった。戦死公報が届くたびに、自宅の書斎に位牌を供えていた美沢だが、さすがに水師営の戦いで四名の教え子が枕を並べて討死ぢたときには、「こう死んでくれては……」と、近代戦の犠牲の大きさに絶句した。明治社会にはじめて厭戦気分が兆しかけたころだが、何といっても国家の隆盛の上に個人の自己実現が矛盾なく成り立っていた時代である。戦後、戦没学生の「表忠碑」が伊勢山皇大神宮境内に建立された。

 列強の角逐のなかで、日露戦の勝利は国際的地位の向上を意味した。幕末以来の不平等条約は解消し、海外ハッデンにも弾みがついたことは、美沢の理想の実現であった。十一年後の大正五年(一九一六)、森鷗外に委嘱して完成した校歌に「力を頼む商人我等/いでや見ませ朝な夕な/撓まず共に戦ふ我等」とあるのは、美沢理念と明治大正の国家の動向の一致と、それを基礎としたY校体制の確立を象徴するものであった。

 この前後、六十歳台の半ばを越した美沢は、各方面から顕彰を受け、商業教育のつぎの段階(たとえば女子教育)への青写真も存在したようだが、間もなく悲運に見舞われた。関東大震災である。

 大正十二年(一九二三)九月一日の震災により校舎が倒壊、七名の生徒が死亡した。倒壊した校舎を前に美沢は悄然と立ちつくした。九月四日に登校、集まった七、八十名の生徒を前に「横浜村を大横浜市に築き上げたのは人間の力であった。いま横浜市の復興は諸子の双肩にかかっている」と檄を飛ばしたが、事後処理の過労で持病の腎臓病が再発、八日後の九月十二日に還らぬ人となった。七十五歳だった。

 献碑式の場にいたある生徒は、参列者の一人犬養毅(当時逓信大臣)から、「あなたは美沢先生の弟子ですか。良い先生を持つことができて、良かったですね」と語りかけられたという。
 Y校は第二次戦中の混乱を経て、戦後六三制のもとに新発足し、平成十五年(一九六四)には国際学科も新設、経済界、スポーツ界をはじめ各方面に人材を送り続けている。創立後百三十年以上を経て、校長室の美沢の胸像は子孫の隆盛を感慨深げに見つめている。

■参考文献 横浜市立横浜商業高等学校編『横浜市立横浜商業高等学校一覧』(横浜市立横浜商業高等学校、一九二二)、藤堂良平編『Y校五十周年記念誌』(横浜商業専門学校校友会、一九三三)、Y校同窓会編『美澤先生』(Y校同窓会、一九三七)、『Y校八十年記念誌』(横浜市立横浜商業高等学校、一九六二)、『Y校百年史』(Y校百年史編纂委員会、一九八二)、『神奈川県史』通史篇4(神奈川県県民部県史編纂室、一九八〇)