○寄稿再録

2018年03月21日

 ウィリアム・コープランド小伝 (2)
勝俣詮吉郎

勝俣詮吉郎
 再起不能、落魄の晩年
 巨額の借金ばかりではなかった。裁判による信用の下落も、コープランドに打撃となった。そのころまでに出現した他の醸造所からは、容赦なく得意先を奪われ、数年間は悪戦苦闘の日々であったが、ついに明治十七年(一八八四)、破産宣告を受けるという事態となり、会社は公売に処せられてしまった。

 この競売に目をつけたのが、幕末勤王諸藩に武器を売って有名になったトマス・B・グラバーだった。早速横浜の英字新聞「ジャパンガゼット」のオーナー、W・H・タルボットと、証券・金銀塊ブローカーのE・アボットという二人のイギリス人に買収を勧めた。

 タルボットらは明治十八年(一八八五)七月に香港籍の英法人ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立したが、その際グラバーは役員に就任、自らが顧問をつとめていた三菱の岩崎弥太郎をはじめ渋沢栄一、大倉喜八郎ら有力財界人にも参加を要請した。当時はまだ不平等条約のもとにあって、日本の企業が直接外国の会社を買収することはできなかったので、まずイギリスの法人として出発したのである。

 コープランドは株主として醸造の研究に従ったとされているが、じつは一株も持っていなかった。新会社の醸造は専らドイツか招かれたヘルマン・ヘッケルトという技師に委ねられたので、アドバイスを求められることすらなかったろう。前述のように穏和で人好きのする人物であったが、酒を飲むと荒れるのが唯一の欠陥だったという証言があるのは、このような失意の時期に発した性癖と思われる。

 しかし、こうした状態にあるときも、彼は無為な日々を送っていたわけではない。ビアガーデンの経営のほか、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導などをしながら、常に再起の機会を得ることを考えていたと思われるが、周辺の土地だけでも急速に値上がりし、設備を整えるだけでも昔とは比較にならない金額が必要となっていた。

 明治二十二年(一八八九)、コープランドは箱根芦の湯で伊勢屋という旅館(現存)を営む勝俣清左衛門の次女ウメ(二十歳)と再婚した。年齢差はまたも三十歳以上。親子ほども差にある女性との縁がいかにして生じたか、興味あるところだが、じつは不振な旅館業の活路を求めて横浜に進出しようとした清左衛門が、ビール醸造についてコープランドに相談したことからといわれる。横浜に着目したという点については、ウメより三歳年下の弟(清左衛門の長男)にも深い関係があるが、これについては後述する。

 コープランドが日本女性を妻にしたということは、もはや日本に骨を埋めるしかないと覚悟をきめたためと考えられる。芦の湯温泉は鎌倉時代に開かれた由緒ある温泉地で、勝俣家は旧家であった。江戸時代の国学者勝間田茂野 (一七七八〜一八三六)は、伊勢屋の隠居として知られている。このような環境の下に育ったウメは、旅館の手伝いをしながら世の動向を察し、進取の気性を養っていたと想像される。結婚記念に横浜相生町の写真館で撮った写真には、そのような意気込みと緊張感が伝わってくるようだ。

 結婚後、コープランドは相変わらずビヤガーデンの経営や醸造の経営指導を続けていたが、あまりパッとしなかったのだろう。四年目の明治二十六年七月、ウメを伴い、新天地を求めて横浜を出港した。どの程度の成算があったのか。すでに還暦に達していたことでもあり、かつてノルウエーからアメリカへ渡ったときと同じ気分だったとは思われない。

 その後のコープランド夫妻には放浪の日々が待っていた。最初のハワイでは二ヶ月少々滞在したのみ。再び太平洋を渡り、アメリカ西海岸のサンフランシスコから南下、中米グアテマラの太平洋側にあるサンホセに到着したのはもう岸辺に重苦しい波が打ち寄せる十一月となっていた。当時まだ中米連邦の一部だったグアテマラ市のホテルに到着したときは、コープランドの嚢中にはわずか二十ドルしから残っていなかったのである。

 若いときには中南米のマーケットについて研究したこともあろう。この地に日本の製品を輸入販売するためには、百ドルほどの資金がかかることはすぐにわかった。困惑している彼の面前に、たまたまカナダのバンクーバーから、日本製品の販売に従事していた旧友が現れ、共同経営を持ちかけてきた。渡りに舟と、コープランドは一も二もなく応諾し、店の一角を借りて雑貨店を開いた。各種の絹製品や寝具類、それにクレープ、すだれ、うちわなどの雑貨類が、まだ日本の産物を見慣れない現地人の目をひくことに成功した。

 しかし、それも束の間だった。手持ちの商品が底をつき、注文した品も思うように入荷せず、クリスマス・セールや新年の売り出しにもこと欠く始末に、コープランドはすっかり落ち込んでしまった。最初のうちこそ物珍しさから寄ってきた客からも愛想をつかさされ、やがて開店休業の状態にまで追い込まれてしまった。無理がたたって持病のリューマチが悪化し、心臓病にも悩まされるようになった。もはや商売も人生も店じまいの時期が近づいたことを、いやでも悟らなければならなかった。
明治三十五年(一九〇二)一月、シベリア鉄道の開通が新聞を賑わしている最中、病身のコープランドは妻に支えられながら、ひっそりと横浜港の桟橋に降り立った。はじめて横浜の土を踏んだときから、三十八年の歳月が経過していた。当座の住まいに落ちつく暇もなく、翌年の二月、コープランドは妻に看取られつつ世を去った。六十八歳であった。

 コープランドの困窮を知ったジャパン・ブルワリーは、重役会の議題としてとりあげた。当時の議長の発言にいわく、「数週間前、コプランド君が、夫人同伴、困窮かつ気息奄々の状態で、南米(原文のまま)から来着した。彼こそはスプリング・ヴァレー・ブルワリーの創始者であり、わがゼ・ジャパン・ブルワリー・コンパニーは、その跡を継いでいるのであるから、わが社はなにがしかの援助の手を差しのべるのが至当と考える」
 同社は葬儀その他の費用として金百九十八円五銭を支出、先達の業績に報いた。現在の八十万円程度であろう。その後ウメは東京麹町に両親と暮らしながら帽子店を営んだが、六年後に三十九歳で没した。いま夫妻は横浜の外国人墓地の2区に眠っている。

 先駆者の大いなる遺産
 コープランド本人の事績は以上に尽きるが、これではいかにも寂しい。実業家として来日したにせよ、彼の手がけた製品は文明開化の象徴であり、日本人の生活と文化に貢献する性質のもので、その影響は産業界にとどまらなかったからだ。

 まず企業である。彼の事業を継承したジャパン・ブルワリーは、製品名をキリンビールとし、販売を明治屋が担当して順調な発展を示したが、明治四十年(一九〇七)馬越恭平(一八四四〜一九三三)の経営する日本麦酒株式会社からの申し入れを受け、買収が成立、その名も麒麟麦酒株式会社と変わった。

 明治屋の独特なボックス型の自動車は、宣伝カーの第一号として話題になったが、大量の製品の運搬は馬力によった。当時を知る地元出身の童話作家平塚武二は、毎日荷馬車に積まれたビールびんが「カチャカチャカチャ」と音を立てながら通る様子を、独特の風物詩として、懐かしそうに回想している。

 従業員が三百人ほどの、当時としては大企業の繁栄は、地域を大きく変えた。すでに明治初期、醸造所の所在地は千代崎町という町名に変わり、明治末期から大正中期にかけて、隣接の上野町を含めた企業城下町として発展した。

 大通りには商店や料亭が建ち並び、三弦の音が絶えなかった。芝居小屋には『明治一代女』で有名な花井うめが来演したこともある。周辺の市日の賑わいなどは、江戸時代のこの一帯がハスしか育たない湿地帯であったことを思えば、信じられないほどだった。

 この賑わいは、文字通り槿花一朝の夢であった。大正十四年(一九二五)の関東大震災によって煉瓦建築のビール工場が倒壊してしまったのである。このとき工場脇の坂道(ビヤ坂)には滝のようにビールが流れ、泡だった。飲料水に困った住民は、工場からもらったビールで喉を潤したり、風呂を立てたりして喜んだが、ほとぼりが冷めてみると、工場再建のめどが立たないのに落胆した。結局工場は鶴見区生麦に移転してしまい、あとには閑静かつ平凡な住宅街だけがのこされることになった。池の跡は前述のように小学校のグラウンドとなったが、一部は公園に、工場跡は分譲地となった。千代崎町二丁目にあった芝居小屋だけが映画館として再建されたが、二十年後の横浜大空襲で消滅した。

 最後に「人」である。後半生のコープランドに連れ添った妻ウメに、三歳年下の弟があったことはすでに述べた。名を勝俣銓吉郎(一八七二〜一九五九)といい、後に早稲田大学教授として日本の英学史に多大な貢献をした、立志伝中の人物である。

 本名銓吉であるが、「小僧みたいで格好が悪い」と、終生銓吉郎を名乗った。前述のように家が傾いていたので、十四歳の明治十八年、小学校を卒業しないうちに横浜へ出て郵便配達夫となった。一日置きにくる宿直の空き番を利用して、山手百二十番にあったミッションスクール山手英学院に入学、郵便局の仲間とスウイントンの『万国史』を輪読した。

 ここで一年ほど学ぶうちに、観光客として来日していたチャムリーとうイギリス人の好意で上京、国民英学会に入学した。正規の学歴コースに乗れない環境の子弟を相手とした、しかもレベルの高い私立学校である。その後「ジャパン・タイムス」の記者をつとめ、ついに早稲田大学で教鞭をとるまでに至った。

「日本人は英語で立つことはできるが、歩くことはできない」として、英単語相互間の自然な連結法(コロケーション)を集成した『英和活用大辞典』は、昭和十四年(一九三九)初版。英米の無数の雑誌から直接に例文をとっている点、ネイテイブに近い辞書として、一九六〇年代ごろまで論文や書簡を書くための必須の辞書という高い評価を獲得した(現在別人の編纂になる新版に継承)。

 ウメが外国人と結婚したのは、この弟の影響なくしては考えられない。逆に銓吉郎が豊富な雑誌類をはじめ、ナマの英語を駆使し、それを一大特技となし得たについては、一つには横浜という開けた環境、もう一つはコープランドという義理の兄の影響が考えられるとしても、あながち我田引水とはいえないだろう。

 約百五十年前、バイキングの子孫よろしく海外に活路を求めて来日したノルウェー系アメリカ人が、開化のヨコハマを終焉の地と定めるまでに、幾多の文化的な影響をもたらし、人間模様を織りなした。歴史と人のふしぎなドラマに感慨なきを得ない。


[主要参考文献]『麒麟麦酒株式会社五十年史』(麒麟麦酒・一九五七)、平塚武二『ヨコハマのサギ山』(あかね書房・一九七三)、出来成訓「英学者勝俣銓吉郎」(「英学史研究」一九七六)、生出恵哉『ヨコハマ歴史散歩』(暁印書館・一九八三)、岡田秀穂「早稲田英作こと勝俣銓吉」(「早稲田英文学人物誌」一九八三)、『ビールと文明開化の横浜』(キリンビール・一九八四)、中区制五〇周年記念事業実行委員会『横浜中区史』(同委員会・一九八五)、『横浜もののはじめ考』(横浜開港資料館・一九八八)