○吉備悠久

2018年04月15日

 醍醐桜再訪(真庭市)


 稲田を蒸すような強い日差しだった。中国自動車道の北房インターを出て、国道313号線に沿って落合方面に約十分。「道の駅 醍醐の里」という標識とともに、レストランや特産品の売場が目に入った。

 ここは旧落合町の最北端、勝山町との境界付近で、山頂に吉念寺という集落がある。案内図をもらって県道の勝山栗原線に入り、狭い坂道をたどる。途中に三、四個所の駐車場があり、「大勢坂遊歩道」という標識がある。一三三二年(元弘二)後醍醐天皇が京の都を追われ、京から隠岐へ配流される際、落合に立ち寄ったといわれるが、このとき村人たちが大勢で天皇を見送ったという伝説がある。現代は春先に繰り出す大勢の観光客で、約三キロの山道が溢れかえる。

 森の湿り気を帯びた暑い空気が、車の窓を通しても感じとれる。行き交う人の影を見ないまま、頂上に近くなった。左手の見上げるような台地の上に、予期していた桜が見えた。いや、再会した醍醐桜は、予期よりもはるかに生命力に満ちた葉桜であった。

 そよともしない山頂である。四方を連峰に囲まれ、近くの山々の濃緑の階調と、紺碧の空の対比がひときわ鮮やかだ。この大きな舞台装置を背景に、高さ十八メートルの巨木がひたすら沈黙を守りつつ、永遠の存在感を示している。

 両側がコンニャク畑となっている小道は、ゆるやかな傾斜をなしている。一歩一歩近づくほどに、幹周りのとてつもない大きさに気づく。七・一メートルもあるそうだ。そばに寄って見ると、幹はしっかりと補強され、横に張り出した太い枝などの要所に十本ほどの支柱があてがわれている。

 このような手厚い保護のせいもあってか、全体に葉むらは繁く、生気に満ち満ちている。少し離れた個所にある二代目の醍醐桜も、はじめて見たときよりは数段成長し、風格が出てきたように思える。周辺には墓地が多く、碑銘も判読できないほど古いものから、比較的新しいものまである。奥まった地域には戦没者が眠っている。この山頂は鎮魂の場なのだ。

 墓碑に春木という姓が刻まれている。集落の人々のほとんどが春木という姓であることを、二年ほど前のTVドキュメンタリー番組で知った。桜にちなむ姓に相違ないと、強く印象にのこったものだが、同時にその番組で地域一帯に高齢化、過疎化の波が押し寄せていることも知った。人間社会の変動を見守り続けてきた千年寿の桜としても、はじめて経験する大きな危機といえようか。

 岡山県中部に位置する旧落合地区は、現在は合併により真庭市となっている。歴史は古く、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡や遺構に富み、荘園も栄えた。鎌倉時代からの神社があり、各地の寺院には県指定の重文も多く所蔵されている。地名の落合は、地域を流れる備中川が旭川へと落ち合うあたりに位置するためといわれるが、中世から高瀬舟の港となり、明治初期にも約百艘が活躍していたという。

 岡山中部にあっては戦略上の要衝地帯として、街道も発達した。前述の後醍醐天皇が通った出雲街道は、古くは出雲から大和へ鉄を運搬する道であった。街道は醍醐桜のある場所から離れているので、伝説が真実とするなら、この地への立ち寄りには桜以外の重要な目的があったのではないだろうか。いずれにせよ、いまからざっと六百七十年以上も前のことである。樹齢千年として、当時すでに三百二十歳以上の古木だったことになる。

明治以降、文化史上の人をとりあげるとすれば、生駒雷遊(一八九五〜一九六四)が著名であろう。本名は悦。家業は落合の運送業で、県立商業高校を出て上京した。明治末期であるから、まず早朝に旭川を下り、夕刻に岡山の京橋に着き、何日もかかって関西へ出たという。早稲田大学を中退、日活の活動弁士(無声映画説明)養成所に入り、大正初期から東京浅草の映画館で、花形弁士として活躍、非常な人気を博し、後に軽演劇の俳優となった。

 雷遊の朗々と歌い上げるような美文調の説明は、戦後にまで記憶され、物まねの対象になったほどだ。アメリカ映画『南方の判事』の結びは次のようなものだった。「朧々の宵闇に千村万落春たけて、紫紺の空には星の流れ、緑の地には花吹雪、春や春、春南方のローマンス……」(吉川弘文館『国史大辞典』)。

 雷遊は浅草の舞台に立ちながら、遠い郷里の桜を謳いあげていたのであろう。紫紺の空のもと、千村万落を見下ろしながら、屹然と立つ大桜。緑の地には花吹雪。まさに醍醐桜のイメージそのものではあるまいか。

千年を生きた深山の一本桜は、それを見る人々に単なる美しさ以上の感銘をもたらしているに相違ない。大地に根をおろし、幾多の風雪にも耐え、微動だにもしないその姿から、人は自然のふしぎさを感じ、自らもその一環にあることを意識する。そのような感慨を新たにするには、はかない花の季節より、むしろ葉桜のころのほうがよい。

 帰途、私たちは同じ真庭市の岩井畝地区に伝わる、樹齢七百年の大桜を訪れてみた。樹高十六メートル、根もとの幹まわり六・五メートル。平家ゆかりの辻権守正信という人物が京都より持ってきた苗木三本のうちの一本で、近年樹勢が衰えたので、回復治療を施した結果、生命力をとり戻したという。古き、よきものの豊富なことが吉備の特色なのではない。その重要性を知り、後世にのこそうという一層の努力こそが、これからの吉備の特色となり、誇りともなるであろう。

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《お知らせ》

 今回の「醍醐桜再訪」をもって、web版吉備悠久は、私の健康問題など、やむをない事情により、まことに勝手ながら休載させていただきたく、おわび旁々お知らせ申し上げます。もともと、このシリースは山陽新聞に画家森山知己さんとの共著として、1999年から2009年までの10年間、連載したものですが、その半ば以上は2006年に単行本化されました。

 その後しばらくしてから、森山さんとご相談の上、各回をあらためてデータ化し、それぞれのホームページに随時掲載してきました。少しでも多くの方々に本書の内容を知っていただきたいという理由からです。

 電子化にさいしては、全回を網羅する所存でしたが、残念ながら果たすことができませんでした。森山さんをはじめ読者の方々にお詫びしなければなりませんが、事情さえが好転すれば再開もあり得ることと信じ、いちおうここれをもって、中締めとさせていただきたいと存じます。永い間のご愛読を心より感謝いたします。

 私が醍醐桜を初めて見たのは、1999年4月12日でした。もう20年以上昔のことになりましたが、天を天とし地を地とする境涯に一千年を永らえた巨木を実見たときの感慨は、まことに生涯忘れ得ないものがあります。取材後ちょうど1か月目に連載の第一回として、新聞紙面を飾りました(正確には「吉備悠久」の題ではありませんが)。

 ちょうどそのころ、私は還暦に達し、岡山に第二の故郷を定めることで、仕事に弾みをつけようと、意欲を燃やしている頃おいでした。連載の文章全体に。われながら高揚感のみんらず気負いさえ感じたるのは、そのような心境の反映といえるでしょうか。もとよりその意力の支えとなたのが、森山さんの画作であったことは論を俟たないものがあります。あらためてこの場を借り、心からのお礼を申しあげたいと思います。森山さん、ありがとうございました!

*なお、web版吉備悠久は、毎回画と文と、お互いにリンクを張り、読者の方々に参照の便をはかってきましたが、この最終回も森山さんにお願いして、リンクを用意したいと思います。