空襲・戦災・死傷者・終戦・戦後―その1―
晴れた昼の空襲は飛行機が見えますので、自分たちの真上のコースにならないときは、
防空壕から出て、B29の編隊と機数を数えていました。
夜の空襲は爆音が聞こえますが、機影が見えないので、大変怖いのです。
爆撃の翌日は、必ず偵察機が1機で戦果の様子と、次の爆撃地を確認にきていたようで
、毎日空襲警報が鳴るのです。
特に尼崎市は、東洋一の火力発電所や、製鉄所・製鋼所・飛行機のプロペラ工場などが
あり、爆弾の爆撃がひどかったのです。父はその地区で働いていましたので、毎日心配
していました。
7月頃になると、偵察機からは、爆撃の地域の順番と日にちを書いた「ビラ」を撒いて
避難を促していました。爆撃は大体ビラの通りだったようです。
ビラは警察がきて、早々に回収していました。
午前中に警戒警報が鳴ると、小学校は給食の「コッペパン一個」を配り、帰宅させてい
ました。
小学校には、兵隊が数百人駐留していました。学校の炊事場で、大きな釜で
白米のご飯を炊いているのを、いつも羨ましそうに、多くの子供たちが眺めていました
。極度の食糧難時代ですから、兵隊になれば、白米のご飯が食べられるのだと、信じて
しまいました。
小学三年生以上は、運動場を芋畑にする農作業に従事させられ、軍隊式の分隊行進の訓
練もさせられ、高等小学生(現在の中学1・2年生)になると、銃剣術の訓練をさせら
れていました。
太平洋戦争は、私の小学2年生に始まり、6年生まで、3年8カ月でしたが、その間、小学
校を4回変りましたので、あまり勉強したという思いはありませんでした。
毎日が、暴力を伴うパワハラで、先生は生徒を、上級生は下級生を、大人や親は子供を
、軍隊式の殴り放題という、暗くて悲しい時代でした。
戦時教育は凄いもので、男子の子供たちは、兵隊になり、手柄を立てる為、
「死を恐れず」になって行くのです。私も海軍航空隊予科練の「七つボタン」に憧れ、
特攻隊を夢見ていました。
暗い時代や体験は、気分が滅入りますので、思い出したく無いのですが、
戦争の事や、残酷な事が、日本に有ったことを、知らない人達ばかりになることが、最
近心配になってきましたので、体験者の責任として、少し書き残すことにしました。
[戻る]
|