空襲・戦災・死傷者・終戦・戦後―その2―
(戦争は残酷)

空襲のたびに多くの死傷者が出ていましたが、日本では、その数の詳細はラジオや新聞 でも、報道されなかったと思います。 原爆を受けた広島と長崎の場合は、当初は「新型マッチ箱爆弾」で全滅したと報道され ていたのを覚えています。 尼崎の私の隣町の空襲を受けた時は、近所の娘さんが赤ちゃんをおんぶしたまま、顔の 半部が無くなっている状態で、死亡していたのを、その娘さんのお母さんと一緒に私も 確認に行きました。焼夷弾の直撃を受けていたのです。赤ちゃんは誰かに助けられてい ました。不思議なことに、遺体の周りに出血が見られなかったのです。 瞬間に心臓が停止したので、出血しなかったのではないか、と思われていました。 赤ちゃんを助けた人が遺体を移動させていたのかもしれません。 本当に残酷で酷い状態でした。私も良く知っている隣組で近所の人だっただけに、涙が 止まりませんでした。 別の昼間の空襲では、お母さんが、双子の赤ちゃんと3歳ぐらいの幼児を抱いたまま、 防空壕の中で、煙に巻かれて窒息死していたのです。焼失を免れたお寺に、収容されま しが、まだ肌に赤みが残っている状態で、この時も涙が止りませんでした。 多くの遺体の処理は、火葬場の庭や広場に山積にされ、油をかけて一斉火葬されて いました。一部の地区では、集団疎開で休校状態の学校の運動場で、一斉火葬されてい たと聞いていました。 大阪駅付近や、天王寺、神戸の三宮・元町の被爆後の状態を見に行きましたが、 余りにも悲惨な状態で、気分が悪くなり、すぐに引き返しました。 昭和一桁以前に生まれた若い人達は、1銭5厘の赤紙(召集令状)で、軍隊に召集され、 戦争の恐ろしさを、嫌と言うほど見せつけられていたのです。 日本の軍人と民間人で、300万人を超す死者を出した戦争の恐ろしさを、我々は忘れて はならないのです。 私の独身の叔父も戦死しましたので、靖国神社に遺骨(英霊)を迎えに行きました。 昭和18年1月だったので、戦死者も少なく、尼崎市を挙げて、市長を先頭に 立派な英霊迎えをしてくれました。 ガザとウクライナの被災の映像を見る度に、爆撃を受けた79年前の当時を、いまだに思 い出さされるのは、本当に悲しくて辛い事です。 全ての動物の中で、「最も残虐で愚かなのは人間」だと、思わざるをえません。 ...
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