ヤングケアラーの経験
父はサラリーマンで会社に行っていますから、昼間は居ません。 食料の配給物の受け取りや、食事の煮炊きの世話、洗濯、掃除、その他、家事一切をこ なさなければならないのでした。 そのうえ病身の祖母の看護もするのです。 勿論、学校には行けません。 両親が離婚したからです。嫁姑の関係が原因だったようです。 幼子3人を置いて家を出てしまったのですから、余程のことだったのでしょう。 子供3人で銭湯に行くのですが、妹は女風呂に入らないといけないのですが 番台に断わって男風呂に入れて貰いました。幼いので、洗ってやらねばなりません からしかたが無いと、許してもらいました。 食べ物には本当に困りました。配給物だけでは、腹がふくれません。 食べられるものは何でも食べました。小川に生えているセリやヨモギも、澄ましや 味噌汁の具にして一時しのぎをし、川や池で釣りをして鮒やモロコ、ドジョウ、 ウナギ、イナゴ、など、雑炊の具にしてしのいでいました。 祖母は寝込んでいましたので、あまり食欲はありませんでした。 なるべく孫に食べさせようと、自分は少しにしていたようで、栄養不良になり、 脚気になり足が腫上り、脛が洗濯板のようになり、痛がりますので、毎日足をさすって あげなくてはなりませんでした。 父が帰宅すると、食事になるのですが、こんなものしか無いのか、と怒るのです。 家事が忙しすぎるので、いろいろ出来ていませんので、毎日叱られていました。 多くの日は殴られていました。妹や弟の前でケアラは決して泣きませんでした。 父も離婚したことで神経衰弱になっていたのだと思います。 ケアラになってから、8カ月目に73歳で祖母は亡くなりました。 栄養失調だったのです。本当に可哀そうでした。 祖母の葬儀に、父の姉夫婦(子無し)が来て、3歳の弟を東京へ連れて帰りました。 これが兄弟の終生の別れになってしまうのです。悲しく寂しい事でした。 現在NHKの朝ドラの「虎に翼」の中で、判事が立場上、法を守り「闇の食料を食べ ず、配給物だけで生活をして、栄養失調で亡くなった」と言うシーンがありました。 このニュースは実際の話で、当時の新聞に大々的に報道されました。 多くの国民は「戦争が無ければまだ生きられた」のです。 「子供のある夫婦は絶対に離婚してはいけません
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