「父を偲んで」
 岡山市立幡多小学校  青 山 典 良
 父は,静岡市の郷土工芸品である駿河漆器を作る職人でした。漆器と静岡のつながりは古く,弥生時代の農耕集落「登呂遺跡」からは,漆で塗られた品が出土されており,今川時代の文献にも,静岡で漆器を作っていたことが記されているようです。静岡に漆芸品が根を下ろすようになったのは,とりわけ江戸時代,「静岡浅間神社」造営の際に,全国から優秀な漆塗職人が集められ,技術を教え広めたことが大きな要因だと伝えられています。(※ 参照 静岡市ホームページ・静岡県郷土工芸品振興会ホームページ)
 父は,塗師としてだけではなく,檜の板を買い付け,生地作りから塗りまでの工程を一貫して仕上げることに強いこだわりをもっていました。物静かで,明けても暮れても仕事をしていた父との思い出は数えるほどしかありません。父を思う時,石川啄木の歌が浮かんできます。「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」。漆を扱う父の手は,洗っても洗っても黒く,私は,その黒い手を子どもながらに恥ずかしく思うこともありました。
 後を継がないことには一点の迷いもなく,父からは,後を継ぐことを一度たりとも勧められることなく,私は,教員になることを選びました。職員室で,父が作った漆塗りの曲げわっぱや盆を愛用してくださっている先生方に出会い,苦労の塊にしか映らなかった父の作品が,漸次少しずつ違って見えるようになりました。
 小学校勤務1年目,同僚からの熱いリクエストに根負けして,父をゲストとして授業に招きました。檜の板を湯せんで加熱し,型を当てながら力を加えると,くるっと曲がる体験に子どもたちは歓声を上げ,重ねた両端を桜の樹皮で編み留めることを知って驚き,何度も塗り重ねることでガラスのような光沢をもつ漆器を見て,目を輝かせていました。
 普段多くを語らない父が,子どもたちからの質問には言葉を尽くし,「何年くらい仕事をしていますか。」との質問には,「(当時)50年になります。好きだから続けられました。」と答えたことに,一番驚いたのは,内心,私でした。父にとって仕事が辛労ではなかったことを知り,とても強い衝撃を受けたのです。
 戦争で父親を失くした父は,長男として,高校進学とともに,曾祖父から手ほどきをうけ,二足の草鞋を履いて職人の道に進みました。父親の戦死がなければ,父は別の進路を選んだのではないか。私は,戦争が落とした暗い影だと思い込んでいました。しかし,父は,職人であることに矜持をもち,伝統の技を磨きつつ,自分なりに新味を加えていくことを楽しんでいたのです。
 3年前に遭った事故から,後遺症を患い,晩年は寝たきりになっていた父ですが,病床でも「仕事をしたい」と話していたそうです。そして,孫のいる北海道と,私たちが暮らす岡山に行くことを生きる支えにしていたと聞きました。コロナ禍での県をまたぐ移動や,面会の制限があり,父の終いを看取ることはできませんでしたが,祈ることで,寡黙な父には,思いが届いているような気がしていました。
 葬儀には,静岡市伝統工芸秀士に指定していただいていたご縁から,たくさんの方が弔問してくださり,地味だった父の最後を彩ってくださいました。お弟子さんたちが語る父,兄姉の父との思い出話,孫たちのお別れの言葉の中には,私の知らない父が生きていました。漆器に魅せられ,よりよいものを創作しようと理想を追い求めた人生であったことを理解することができました。
 働くことについて,いずれにしても影響を受けたのは父です。オンオフの切り替えが苦手な私の傾向は,父の働く姿を端で見ていたからなのかもしれません。父は,仕事に「やりがい」や「よろこび」がありました。よって,休みなく,長時間働くことも苦痛ではなかったのだと思います。そうした能動的な働き方があることを認めつつ,教頭となった私が職員とともに目指したいのは,仕事とともに,家族や友人,子育てや介護,健康,お気に入りの時間等も大切にできるウェルビーイングな生き方です。
 ただ,天上の父には,心ゆくまで仕事をさせてあげたいと願うばかりです。そして,時には,冷たいビールを飲みながら,プロ野球のテレビ観戦を楽しんで,少し身体を休ませてほしいものです。