「田んぼに思う」
 瀬戸内市立邑久小学校  國 重 由 美
 すごい、こんなにきれいだったんだ・・・。
 5月下旬の月曜日、登校してくる児童を迎えようと東門を出て、驚いた。門のすぐ前から広がる水田。近くの神社まで行くと、水面には遠くの山々が映り、朝日を受けてきらきらと輝いている。しばらく目が離せなかった。すぐ左手の田んぼは、一週間前に田植えをしていた。成長の様子を間近で観察することができると、うれしく思っていたのだが、秋までこの広大な景色の変わりゆく様を継続して見ることができるとは!
 教頭職2校目として、4月から本校に着任している。経験年数は4年目になるが、前任校の10倍になった児童数、7から33に増えた学級数に圧倒され、なかなか思うように仕事を進められない日々。約20年前に教諭として勤務していた学校ではあるが、分からないことばかりで、当時は担任するクラスのことしか見えていなかったと、反省することしきり。そのような中でのこの景色との出合い。心の中に、すうっと爽やかな風が流れた気がした。よし、ここでがんばっていこうと、思いを新たにすることができた。
 水田にこんなにも惹き付けられたのはなぜだろう。ポスターやカレンダー写真にでもなりそうな、本当に美しい景色だった。
 思い返せば、幼少の頃から、近くで田んぼを見ることがほとんどなかったような気がする。海辺に住んでおり、走り回って遊ぶのも、海岸や家の裏山、路地。家が密集しており、田んぼも畑もあまり見なかった。電車で通学していた学生時代、窓から遠くに見え、青々と広がっていたり、一面黄金色だったりする光景を見た記憶がある程度。いや、そういえば隣町に住むいとこの家に行き、一緒に田んぼのあぜ道でおたまじゃくしすくいをしたことがあったような。稲刈り後の田んぼで凧揚げをした記憶もかすかにある。身近に田んぼがなかったというより、周りの自然に目を向けることがなかっただけなのかもしれない。
 東門からの眺めもそうだ。運動場に面している門だから、かつて勤務していたときにも、視野には入っていたと思われる。にもかかわらず、全く記憶に残っていない。目の前のことにしか意識が行かず、せっかくの景色が見えていなかったのだろう。なんともったいない!
 月・水・金の朝、東門に立ち、児童の姿が見えるまでの間、「2日しか経っていないのに、少し伸びた気がする」「今日はあまり変わらないように見える」などと、毎回観察を楽しんだ。そのうちに、もう山の映る輝く水面は見えなくなり、真緑の田んぼになった。休日に大雨が降った際は、「稲は無事だろうか」と思ったりもした。出張や振替休業日等で、数日見ないと、目に見えて成長が感じられた。小さな苗が少しずつ大きくなっていく様子と、入学してからどんどん新しいことを吸収していく1年生の姿が重なり、うれしくなった。自分もがんばろうという気持ちになった。
 8月末の登校日。東門から出て、神社まで行った。びっしりと田を埋め尽くす青々とした稲。小さな朝露のつぶが、あちこちについてきれいなこと。
 遠くに、並んで歩く子どもたちが見えだした。さあ、2学期が始まる。