5/1//2007 吉備雑感日記  
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学画と質画(その2)

400年にわたってこの国の絵画史上に影響力もった狩野派という流派があります。室町時代頃より明治まで、時の権力が変わろうとも御用絵師集団としてお寺やお城に作品を残してきました。
 よく絵の巧い下手は、才能の問題などといわれることがありますね。一方、昨今ではそれぞれの個性が表現されていれば巧い下手は関係ないとも言われます。
 「才能」と言う言葉もなかなかくせ者なのですが、「個性」と言う言葉もまた微妙な使われ方をされていると思うのはわたしだけでしょうか?。だって人は生まれながらに一人一人の個としてそれぞれの人生を生きています。違いはもとからあるのです。あえて言えばこれまで個性の優劣といったことを問題としたために「よい個性」と呼べるようなものを求めたのかもかもわかりません。
 400年という年月は半端な時間ではありません。伝えるのが難しいと思われている存在をいかにしてそれだけ存続させることが出来たのか?価値観の保存、継続、継承といった今の時代の要請に応えるヒントがここにありそうに思うのです。(ただし、権力との関係も見え隠れしますから、一筋縄ではいかないとは思いますが・・・)
 
 

八塔寺で見た椿
■ 八塔寺で見た椿
 

■ この「学画と質画」という言葉は、狩野派の「画道要訣」という画論の中に出てきます。絵として成立させている要素が、天性のものと思われるなら、それは「質画」と呼び、対して学ぶことによってなしえた要素が主要ならそれを「学画」と呼ぼうとしたのだとか。
 
狩野派としては、この二つどちらも絵の大切な要素としながら、あえて「学画」を重要とするとしています。学んで実現可能なものならば、代々子孫に伝えて行くことが可能だからです。連綿と価値観を継続している間には、生まれながらに何らかの資質を持っていて、その人なりの輝きを加え表すこともあります。だからこそ時を越え、価値観を継続させる方法論として重要なのは、誰にでも学べば実現出来る具体的な学びのシステムを作る事だったと思われるのです。
 ある種普遍化された描き方の学習方法は、多くの人間が見方、理解、評価の仕方を具体的に学ぶことにも繋がります。学習のシステムが価値観を形成するマスの確保にも繋がっていたのです。


タンポポ『日本画』という言葉も使いにくい言葉になりました。
■ タンポポ
『日本画』という言葉も使いにくい言葉になりました。
 

■ 個性に対する考え方についてはひとまずおいて、昔と変わらない描き方を続けるとするなら、使う材料ほか、描いた結果も比較する事ができますね。材料の良し悪し、描き方の習熟具合、単純なことではあるけれど、明確に伝えられる要素が明らかになります。

一方、今の時代のように誰もがそれぞれかってに描くという状況では、批評は大変難しくなるか、もしくはその存在の意味さえ無くなる可能性さえ考えられます。なぜならなにとどのように比較するかさえも「個性」という言葉で片づけられる可能性があるからなのです。

 

 


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