7/11//2001 地域イントラネット外伝  記事
霧中アトリエ 森山知己のホームページ|■語句・項目検索


1997年〜1998年の情報部会

高速な常時接続インフラ確保。県の実験事業に参加し、研修用のパソコンも設置されました。しかし、ネットワークには、未だ繋がっていないのです。そのインフラシステム構築自体も住民で提案しなければならないことが次第にわかってきたのです。

1996年、秋、情報部会は、岡山県の進める高度情報化実験の正式なワーキンググループとして認められた事により活動が本格化したのですが、これをご覧になってくださっている皆さん、不思議に思いませんか?

「普通の住民?が組織を作って県の実験に参加したりするものだろうか?」

「自治会に住民が集まるの?」

都市・街に生活していたりすれば、必然的に出てくる疑問の様にも思いますが、いかがでしょう?住民の移動、転入、転出が多いようなところでは、「人と人」関わり自体が少なくなってしまうのが現状でしょう。また、現在のような職業の多様化、就業時間の多様化は、当然、地域で暮らす人間同士の関係構築を希薄にしたりします。

2001年現在、IT講習は花盛り、多くの人々を集めているそうですが、情報部会発足当時はというとインターネットという言葉でさえまだまだ、一般的な認知の無かった頃です。また、ワープロ・パソコンだって一般的な家庭での使用はもちろんオフライン、一部に限られていました。

ネットワークの具体的姿、ましてや、イントラネットという言葉に対しても、企業・学校などの現場を除けば、一般家庭生活とは縁遠いモノです。

そんな住民がいかにして集まり、組織として行動できたか??

「外伝?」らしい部分ですね。私自身はといえば、この頃、越してきたばかり、お隣だってどなたが住まれているか存じ上げない頃の話です。ましてや、都会の暮らしでは、ご多分に漏れず?自治会の集まりに出る?なんて考えた事も無い生活をおくっていたのです。

自然豊かな吉備高原都市、都市とは呼ばれていますが、中山間地に位置しています。先進的な岡山県の取り組み、高速な情報通信ネットワーク、実験に参加すれば常時接続高速通信環境が使えるのでは・・・・という?甘い期待に胸を膨らませ、家に入った集まりのチラシに誘われてコミュニティーハウス(集会場)に出かけたのでした。

若い人、それなりの年齢の方、女性、男性、住民数から考えれば、結構な数が集まっていました。

当時の吉備高原都市北部住区はというと住民の定住が始まって5〜6年という所でしょうか、自然、福祉との共存を目指した先進的な試みとして岡山県が行った中山間地における都市開発事業地域でした。

バブル崩壊等、経済的な要因もあり、当初想定していた程の人工集積が進まず、当時、ゴミの収集、買い物他、生活に密着した問題解決のために地域行政との交渉など、必然的に住民が集まる素地が出来ていたということも一因かと思われます。また、地域学校?のような形で福祉に関する勉強会等が企画されたりと、少ない住民数に置ける結束は、必然のようにあったのでしょう。

また、当時、組織としての集まり、それ!自体も大変柔軟なモノでした。

「自治会」という言葉は、明確な「組織」をイメージさせますが、何か「役」?があるから何かを行うという参加と言うよりも、住民の多くの中に、「出来る人が出来るときに出来ることを行う」という基本姿勢が当時、それぞれの参加者の根本にあり、自然にそれを実践していたように思います。気心のしれた仲間という意識でしょうか。

住民数が多くなり、また、当面の生活上の問題がクリアされ、便利になってしまうと、住民間の共通の利害が見えにくくなり、人と人、関わり自体が減ってしまうということは、ありがちな事ですね。こうなると、「出来上がった形」というモノが俄然、クローズアップされ、「形」を達成・実現することが目的となってしまったりします。どちらが先か?は難しい問題ですが、「必然により自然と出来た形」と、「出来上がった形を維持する事」どちらも大切な事とは思いますが、、、、、。

本質的な部分が明確に意志共有出来ていれば、「形」が輝き出す。

目の前の問題解決に人が集まり、「出来る人が出来る時に出来ることをする」「夢高原会」ですね。

そんな事を2001年の今、思います。

**************************

さて、1996年実験参加時、当面の問題は何だったのか?

情報ハイウエー構想ですが当初、我々は、県が進める実験に参加し、認められたのだから、

「インフラとなる高速な通信回線を県がこの吉備高原都市の各家庭まで届けてくれる」

と信じていました。届いてからが、我々の実験本番。幸いなことに、この吉備高原都市は双方向通信化可能な「CATV回線」をすでに施設済みです。ましてや、県が進めた開発地のここならば「信じて待つ!」体制でおりました。

「夢」を膨らませ、「それまでに出来ることをやっておく」

というわけで、それまでに、情報のデジタル化加工技術であるとか、利用法開発なんて事の前段階として「住民の情報リテラシー向上」に向け取り組んだのです。

それぞれが、忙しい会社員であったり、自営業者、部会を構成するメンバーです。実験協議会が開く集まりに参加するのにも、いろいろと調整作業を要しました。  

しかし!、「どのようにインフラを構築するか?」

もワーキンググループそれぞれが案をだし、提案していかなければならないらしい!!という状況であることがそのうち、わかり初め、にわかに我々部会も「イントラネット」構築に向けたネットワークの勉強を始めたのです。それまで、私は、こうした行政が行う事業のなかで、施設設備等を伴う事業をどのように行い進めるかを知りませんでしたが、基本的には<コンサル>と呼ばれる企業などが、機器・システム提案などを行い、事業予算請求?などを行うのだそうです。                                 

「ネットワークインフラ構築もテーマ」だといっても、住民である我々にはいかんともしがたい問題です。住まいする行政、加茂川町役場関係者に相談してみたり、県の方に相談してみたり、いろいろな手をうって見ましたが・・

 危機的県財政事情もあり、「吉備高原都市」と言うはある意味で逆風でした。

問題は、「高速通信インフラ自体を将来にわたって?吉備高原都市住民として確保出来ないかもしれない!」ということでした。

新時代、次の時代に向けて、この時、高速なネットワークインフラを利用できない地域になりそうだ!という危機感を参加者で共有したのです。

本当の?都市部など、十分な人工集積がある場合は、なにも行政に依存しなくとも、民間業者による通信環境整備が進むことは、当時でも自明でした。しかし、中山間地、それも過疎?な地域での高速な情報通信インフラ確保がいかに大変か?は、2001年の現在、経済状況の厳しさもあって、以前よりもより大きなハードルとなってきているでしょう。一例を挙げるなら、当時(1996年)、都市部東京などでは、NTTのOCNエコノミー接続サービスが個人などにも始まっていましたが、この地の該当NTTさんに聞いても「近々の整備予定は無い」状況だったのです。もちろん、越してきた当初、最初から?ISDNに我が家はするつもりでしたが、、、、、それもかなわなかったのです(こちらも整備予定外・・都市と呼ばれているのに!!)採算性とは大きな問題です。たしかに、誰もがこの高速なネットワークを利用できるようになることは国策でもあり、現在、当然の権利のようにも思われますが、民業のあり方を考えたとき、あえて採算のとれない?ような地域整備と言うのはなかなか進まない、もしくは出来ない相談です。ただ、住まう場所、生活する地域により格差が生まれるとしたら、、情報通信インフラが重要なモノであるならば、自分たちの子供達にとっても不利益となりかねません。かっての鉄道、また、モータリゼーションのように道路が通らない場所、地域がその後、どうなっていくのか?また、整備の遅れがその地域にどんな影響を及ぼすのか?

危機感を共有する事が出来、「必要なモノを手に入れよう」と動き出したのです。

1996年、平成8年のサブテーマ「住民の情報リテラシー向上」でしたが、「パソコンであそぼ会」など、アプリケーション研修会などを進める一方、コアなメンバー20数名が独自で、niftyでメールアドレスを取り、メールによる情報共有を始めました。何故、この時、niftyだったのか?ダイヤルアップ環境に於けるメールシステムとしてのniftymanegerが良くできていたということが上げられます。パソコンでの通信環境セットアップは、ほぼ自動でしたし、また、アクセスポイントが当時、多くあった(吉備高原からは岡山、倉敷に繋いでいたのですが・・・)事が理由です。同時に、ユーザー環境において、ダイヤルアップの設定、TCP/IP設定など、当時まだまだ敷居が高かったのです。

メールによる、情報共有ですが、県との交渉、実験事務局との交渉課程など全てがそれを使われて会員に共有が行われました。メール同報機能による実現でしたが、県の財政事情などもあって、緊迫した場面、危機感の共有がすすんだのです。

この時、すでに、地域生活において「メール」という機能が有効であることがメンバー間で確認されました。参加者それぞれの仕事も含めたそれぞれの生活時間の違いを吸収し、情報共有が進んだのです。たしかに顔と顔を合わせたコミュニケーションの時間を作ることは重要です、このことは、地域生活において何時の時代も変わらないでしょう。しかし、多くの参加メンバーが一同に交いするような時間を作ることは、それもまた忙しい世の中、大変な調整作業を要します。とりあえずでも会の動き、現状をメールによって確認しているだけでもその次での集まりがより有効に機能するのです。

次第にコアメンバーの集まりでは、メールの同報もあって、ネットワーク構築の話がメインとなりはじめたころ、情報共有がよい方向で進む反面、「ネットワークの難しい話はわからん」「話を分けたらどうだろう」という意見が主要な中心メンバーから出され、技術部という会内部チームが作られました。当時3名、今も?3名ですが・・・

この時、「難しい話」を分けた事がよかったかどうか?今となっては、微妙な気がしています。

「ただ?使う人」・・・せっかくの?取り組みの共有が、このころから、いつの間にか?「誰かに?やってもらう」になったのでは無いか?と思っているのです。

メール利用において、大きなサイズのモノを頻繁に参加者に送るという方がいらしゃったり、また、メールに対する返信をみんなに求めた方もいらっしゃいました。ネチケットという言葉がありますが、とにもかくにも黎明期、今となっては、楽しい思い出です。そして、

1998年http://www.kibicity.gr.jp が誕生しました。
(2001年現在、上記は稼働していません。新地域イントラネット構築モデル事業-現在の

http://www.kibicity.ne.jp/

に発展的移行<直接の関係はありません>を遂げています。利用インフラはCATV回線を利用した高速常時接続です。)

県の情報政策課ならびに実験推進協議会の担当方々はこの地の「住民が自ら行おうとしているエネルギー」に共感してくださり1997年、CATV回線利用のインフラ整備はかないませんでしたが、ダイヤルアップにより各家庭からサーバにアクセスするシステム設置予算措置が通り、1998年3月、OCNエコノミーをアップリンクとした、インターネットサイト、イントラネットサイトが誕生したのです。(NTTにOCNエコノミーの前倒し?整備を陳情にも行きました。岡山県の中山間?ではかなり早い利用だったと思います。ましてや?自治会がドメインを持っているのですから・・・・・)

最後になりましたが、コンサル?に松下電器さんがついてくれたり、サーバの導入でPFUさんにお世話になったり、また、NTTさんもみんな「さん付け」ですね。県も含めて、担当の方々に本当にお世話になりました。


平成9年度実験の実質的な部会の活動は「ダイヤルアップ接続によるイントラネットシステム」を稼働させる事でした。

次回では、ネットワークシステム構築の具体的な流れやまた、その時に起こった事などをまとめてみたいと思います。

 


Copyright (C) 2001 tomoki All Rights Reserved.
このホームページに掲載されている記事・写真・図表などの無断転載を禁じます。< kibicity-記事発信支援システム>