10/20//2002 吉備雑感日記  記事
霧中アトリエ 森山知己のホームページ|■語句・項目検索


古くて新しいモノ(加茂大祭)

吉備高原都市のすぐ側、加茂川町総社宮で、加茂大祭が行われました。この吉備高原に住むようになって何度か訪れた祭りですが、今回は、いろいろと思うところがありました。住み始めていくらかの年月が過ぎました。見知った方々との話の中に何らかのヒントを感じたのです。

祭りの詳細は以下リンクを参照ください。

http://www.town.kamogawa.okayama.jp/festival/page01/page01.htm

simg1020173353.jpg
 ■ 人口6000人強の加茂川町、地理上のエリアも広く、人の密集など感じたことがないのですが、この祭りの時だけは、どこから人がでてくるのか?と思うほど、多くの人々で賑わいます。






今回は、<古くて新しいモノ>について考えて見ました。

simg1020173900.jpg
 ■ 昨日は、この祭りに参加する一つの神社(加茂大祭は、八つの神社によるお祭りです。)に縁在って伺いました。山深い場所、人家もまばら、人影も見えません。街灯一つない山道を登ってやっとたどり着いた場所には、本当に多くの方々が集まっていました。

老人、若い衆、子供達、祭りの準備に余念がありません。

simg1020174122.jpg
 ■ 深夜にそれぞれの神社を出発して、加茂市場・総社宮を目指します。

simg1020174402.jpg
 ■ それぞれの行事が古式ゆかしく行われているそうですが、そこには、村の長達の厳しい指導があるからだそうです。何年も何百年も続けられてきた祭り、しきたり。

今も変わらず、反省会では先達からの厳しい指摘があるそうです。

simg1020174656.jpg
 ■ 何故の厳しさか?神様を祭るということにも繋がるのでしょうが、一般社会、町の今の風潮、<なるべく簡単に、多くの人、誰でも参加できるようにと簡略化し、行う姿>とは一線をを画した何かがあるようです。

simg1020175154.jpg
 ■ <何か>を守ると言うことは、現在、意識して行わなければ存続できないような時代を迎えているように思います。

頭の良い方々は?往々にしてその時々での解釈を加えます。単純化したり、省いたり、時代に応じた対応と言えなくもありませんが、<その時、理解している程度にしか守れない>ということにもなりますね。

対して、無垢に、素直に<形>を守ろうとしている方々は、本質が何であるかを理解しているかどうかは別として、形として伝わっているものを加工しない限り、少なくとも<大切な何かを失う>事は無いように思います。(ただし、、形骸化という言葉もありますから、ただ、形を守っていればよい?というわけでもなさそうですが・・・。)人の営み、900年以上も続いてきている事ですからその歴史と勝負?出来る価値観が在るかどうか?と言うことかもわかりません。

simg1020175622.jpg
 ■ 日本文化継承の上で、流派、形と呼ばれるモノが登場する事が多くありますが、ひたむきな形の継承は、言葉とは別の形での何らかの保存機能を持っているように思います。そのおりおりの言葉で表現できないような大切な何かを形(かたち)として伝える力です。

変わらぬ姿は、理解される時を待っているタイムカプセルかもしれないのです。


simg1020180332.jpg
 ■ 昔、「芸は盗め」と言う言葉を聞いたことがありますが、それはその連綿と続く姿の中から、その上に自分なりの言葉を作る、生み出すと言うことのようにも思います。

かっての日本画の流派の一つである狩野派は多くの弟子をもちました。その弟子達の中で、次の頭首になれるのは誰か?、繰り返し学ぶ形の中から普遍性に繋がる解釈を見いだした者だったのかもわかりません。

形は公平に誰の前にも同じ姿を見せてくれますが、その中に潜む歴史の重み(価値観)を感じ取り、そこから新たな表現を生み出せるという者だけが時を越えて生きる何かを生み出せたのでしょう。


安直に形を崩すと言うことが何をもたらすのか?その姿はいくらでも今の日本の中で見ることができるでしょう。本当の意味で普遍性を持つ新しさを提案すると言うことは、誰にでもできることではないという戒めを教えてくれているように思います。

連綿と続くこのお祭りが、形をかたくなに守ることで、今、生き生きと輝く。町を離れた子供達がこの祭りのために帰って来る。親戚が集まる。地域が一つになる。

そこには、家族や、地域というものの一つのあり方、姿があるように思うのですが、さていかがでしょう。

もちろん教育のありかたもそうですね。かたくなに守ろうとする姿が一方にあってこそ、そこからの自由も輝きを増すのではないでしょうか?。

なんとか?二世、三世が幅をきかすようになりましたが、確かに何らかの<形>のすぐ側にいる人々が他の多くの人たちよりも<何か>を知っている可能性は高いですね。しかし、何かが衰退していくときの姿というのは、案外、<形>の裏側が見えなくなってしまった時かもわかりません。

長い歴史のある何かに関わるという時、自分自身は、次の時代へ続け、繋いで行く伝達者程度に考える方がよいのでは?とふと思った次第です。

 


Copyright (C) 2002 tomoki All Rights Reserved.
このホームページに掲載されている記事・写真・図表などの無断転載を禁じます。< kibicity-記事発信支援システム>