展覧会案内・感想

2014年04月11日

 大正時代の竹喬
大正時代の竹喬 チラシ表

大正時代の竹喬 チラシ表
 笠岡市立竹喬美術館で「大正時代の竹喬」が開催されています。2014年3月22日(土)〜5月25日(日)開館時間 9:30〜17:00 入館は16時30分まで 休館日:毎週月曜日(※5月5日開館 5月7日休館)

 竹喬美術館の展示・展覧会を注目するようになったのは、まだ私が東京に暮らしていた頃、それもとても若い頃のことでした。
 当時の芸術新潮(新潮社発行)では、日本画と呼ばれる存在についてや、また既成の公募団体展に対する認識など、読者、社会に対して問題意識を喚起するような企画が頻繁に組まれていたように思います(当時、私自身が日本画表現について悩んでいたためにたまたま目に止まっただけかもわかりませんが・・・)。なかでも1984年2月号での「甦れ大正デカダンス」という企画は、今でも私の印象に強く残っています。掲載当時の画壇の閉塞感を打ち破るエネルギー、古いと思われる大正という時代を背景としたこの国の絵画表現の高まりに、その打開策、異なる選択を見つけようとした企画だったのです。それは、私が悩んでいたこと、当時考えていたことともつながりました。見えにくくなってしまった存在を再発見するきっかけ、手がかりともなったのです。

 表紙は、速水御舟の「修学院洛北村」の部分、特集の扉は、徳岡神泉の「蓮」、こちらも部分。そして<時代と共に生きる>と題して池田遙邨の「災禍の跡」。少なくとも私が学生時代に通常目にしていた絵画とはどこか違う、エネルギーあふれる何かとの出会い、何かを探す一つの取り組みのあり方と出会ったように思ったのでした。
 気になる絵画、その作家たちの検証、誌面での紹介は、竹喬美術館での試みとつながっていたのです。

 昭和57年に完成した笠岡市立竹喬美術館、開館と共にスタートする大正、国画創作協会を検証する企画展の矢継ぎ早の開催、そして現在に続く、関わる個別の作家・作品の検証。先日の村上華岳展もまさにその一つでした。開館以後ずっとブレることの無い取り組みの姿です。
 私自身のテーマでもある「日本画ってなぁに?」、実際に描いて試してみる試みは、当時、同時代、昭和を手がかりにした作業から大正へと向かった頃でした。西洋的な美術教育、それに基づく受験を経ての日本画学習、色と構図、絵画平面としての探求になにかしらこの国の名前、価値観の在処を見つけたいと思っていた私に、私に無いもの、伝統的な技術、画材との関わり方という焦点を明らかにしてくれる出会いでもあったのです。その後も大正、日本画に注目する企画が芸術新潮では行われ、1991年の「日本画よ何処へ 大正日本画の逆襲 」も印象に残っています。もちろん竹喬美術館の行った企画展開催による作家、作品の掘り起こしは、その折々に誌面でも紹介されました。私が注目したのは、言うまでもありません。
 
 さて竹喬美術館の意欲的なこの試みは未だに続いています。竹喬が岡山出身であったこと、またその周辺にまで視野を広げて検証を試みた美術館学芸員(現在の竹喬美術館館長)の姿勢。私の探求において、確認の機会を与えてくれる貴重な出会いの場ともなっているのです。

 館蔵品による展示企画、今回の「大正時代の竹喬」では、私は特にC展示室に注目しました。とにかくこの一室、全体から受ける印象の「活き」がよいのです。
 入って正面、そして奥、「波切村」「夏の五箇山」「海島」など大きな屏風作品に見られる群青の海、その鮮やかなこと、緑、緑青の生き生きとした輝き!。入ってすぐの右手には掛け軸が並びます。この掛軸も生きが良い!。ほぼ三十歳までの作品が並んでいるのだとか、単純に「美しい」と感じられる色との出会い、絵画鑑賞体験として、とても重要なことだと改めて感じるのです。

 じっくりと時間をかけて描かれたスケッチ、インプットにかける時間。同じような風景の一片を選びながらも、その描き込みの中に年代によって竹喬が大切にしたいと思われる中心が変わっていくのが感じられたように思います。竹喬作品との新しい出会いの提供、そんな思いを感じる展覧会でした。