トレース・骨描き(線描き)
線を描くことは、西洋でも東洋でも古くから行われて来た事です。昔々、中国から伝わって来た墨、毛筆、紙をこの国なりに洗練し、この国独自の形、姿、使い方に高め、作り上げて来ました。ここで紹介するのはその一部についてです。一般的に骨描きとは、彩色することを前提とした作業として紹介されますが、描く対象とそれ以外の空間を切り離す表現そのものでもあります。この線だけで完成する「白描」と呼ぶ表現もあります。
●使用する墨、硯、筆、和紙などについて線描用の筆には、削用、即妙など、良質の羊毛で作られたものが良いとされているそうです。この他、材料に鼬(イタチ)の毛やテン、猫毛などが使われている筆もあります。<より腰の強い毛を使った筆があるのにも関わらず、どちらかと言うと初心者には柔らか過ぎてコントロールが難しく感じる羊毛の筆が良いとされて来たのかについては、筆と基底材の原初的な関係に秘密があると思っています。このことが後々、この国の重要な価値観に繋がっていると思っているのです:詳しくは華鴒美術館での講演録参照ください。>面相筆を使います。筆は、それぞれ求められた「線」を描く為に発達して来たことを覚えておいてください。
●硯の準備硯にも様々な種類があります。どのような硯を使うかについては、基本的に描きたい絵に合わせてということになると思います。使う上でここでは、ごく基本的なことについて紹介します。試しに墨をすってみると、上滑りしてなかなか墨が出来てこないように感じることがあります。このような時、1、墨と硯があっていない。(相性のようなものがあります)2、硯に宿墨(硯の使用後の後始末が悪く、古い墨が硯の鋒鋩(ホウボウ)を機能しなくしている)がある。1:硯は、砥石のようなものです。砥石がわからない場合は、とりあえずサンドペーパーのようなものと考えてください。サンドペーパーには荒い、細かいといった目があり、硯にも同様に鋒鋩という名で呼ばれるものがあります。硯の違いとして外見以上に実はこの鋒鋩の目の大きさが重要なのです。使う墨がその目に合っているかどうかで希望した墨色、墨の具合になるかどうかが決まります。2:試しに硯の墨をする場所に爪先をあてて動かして見てください、爪痕が硯に残らないようだと、硯の目(鋒鋩の谷間)が埋まっている可能性があります。硯砥石を使って研ぐ事で墨がよくおりる場合もあります。なお、最近売られている硯では、墨をする場所にワックスがかかっている場合もあるようです。このワックスを落とした方がよいのは言うまでもありません。
●墨について墨も多様であり、ここではごく一般的なことのみいわゆる和墨を線書き(骨描き)に使います。日本で作られた墨で、菜種油の煙から作られます。基本的に墨色は褐色を感じさせるものできめが細かく、薄く使った場合は透明感を感じさせ、濃墨として使った場合、膠分による照り、光沢を見る事が出来ます。この骨描きで重要なのは、このあと行う彩色などの作業に対して堅固に墨が定着しているということです。含まれる膠分が重要であることはいうまでもありません。使うのは古い墨でもよいのですが、この膠分が十分かどうかを注意してください。<注意:逆に最近売られている墨には染料が混ぜられていたり、質の悪い膠が用いられていたりして基本的な使い方が出来ないものもあるようです。作業の上で、値段は高く無くとも良い墨を選ぶ事が重要です。>
手持ちの古い墨(貴重な銘墨という意味ではなく、ご自身の小学校時代に使った墨他)などを使う場合、墨のすった断面が鏡面のように黒く輝いているかどうかを確かめるだけでも含まれる膠分を知ることが出来ます。染料等の含有が無く、少なくとも1980年代頃までに売られていた墨なら、安価なものでも十分使用出来る場合が多いようです。上段の画像、右端にある竹製品の道具は小さくなった墨を挟んで使えるようにするものです。小さな墨でも十分使う事が出来ます。道具、材料を大切にすることも重要な事です。
墨を実際にする様子です。硯の墨をする場所に水をたらし、墨をそこで前後に動かしてすります。硯のホウボウ(目)と使う墨が合っていれば、強い力で摺らなくとも墨は自然とおりてきます。墨が滑るような感覚があり、なかなか最初の水が黒くならない場合は、うまく墨がすれていません。墨を動かす時、粘りを感じるようになったら水を足し、必要な量になるまで作業を繰り返します。墨は、基本的に濃くなるまですり、薄く使いたい場合は、この濃い墨に水を加えて使います。
硯に溜まった墨をそのまま使うよりも、一度皿に取ると墨色、濃度もわかり使いやすい。質の良い油煙墨は、粒子も細かく透明感を感じさせる。
●線を描く作業1:紙について使う薄美濃紙は、表具で肌裏紙として使われることの多い紙です。薄く柔軟で、なおかつ強い紙です。原材料は楮です。使う紙、絹の方向も重要な要素です。紙はたたまれている時折り込まれている面が表とされています。紙制作の時、乾燥板に接した面が表とされているのです。耳を両側となるように使います。軸装時にも重要な要素に成ります。2:筆について面相を今回は選んでいますが、書道の細字、かな文字を書く筆も使えます。よい筆を選ぶ事が重要です。使う筆によっておろし方、持ち方、しまい方などいろいろと学ぶ要素があります。単鉤法、双鉤法など筆の持ち方他、ネットで調べてもいろいろと学べます。(伝統的なかな書関連が参考になるでしょう)基本は筆を立てて使おうとすることかと思います。(どちらの方向にも曲がりやすくする為)絹も同様ですが、薄く下が透けて見えます。下絵、下図を下に敷いても十分に下に置いた下絵の線を見る事が出来るのです。下図を作る作業でも何度もこのトレースを行いました。透かしながら線を描くことは、ある意味で道路をうまく走るようなものです。ガイドとしての線が下にあり、迷う事無く、よりその線をよいものにしながら選び取り新しい線として描くのです。このトレースの行程が作業の中に何度もあること、あったことによって、この国の絵画の重要な要素として「線」は発達したのではないかと思っているのです。描く絵の内容によって墨色をコントロール(線を目立たせたく無い場合は薄くするなど)するのですが、線を引く基本は基底材の表面を感じながら描くということになります。柔らかい毛の選択もそして筆法の成立もこの一点が重要だったと思われます。基本的にはゆっくり筆を動かします。点を打つようにとか、置くようにと表現されることがありますが、基底材表面の凸凹を筆で吸収し、カーボンの粒子を繊維の間にしっかりと止めて行くことが目的なのです。濃墨を使っても、細く繊細な線を描けば絵の具を付ける場合でも邪魔になりません。逆に薄い墨色では、地塗りなどの着彩で見えなくなる可能性もあります。今回は濃墨を使い、細く繊細な線を描く事を目指します。ただし、これも基本の学習という意味からで、行いたい表現に応じて、最終的に線を消すように色を塗る場合、その段階で邪魔にならないような線、墨、もしくは色(絵の具を使った線を使う場合もあります。)を使うなどそれぞれの工夫を制限するものではありません。
参考:線の表現が毛筆と大変深い関係にあると書きました。同時にこのことは、日本画と呼ばれる絵画の技法の基本にもなっていると思われます。白描、鉄線描、肥痩線、遊糸描などがあります。墨には唐墨、松煙墨もあります。墨の粒子に幅があり、水墨表現では大変有効な働きをします。膠分が枯れているものもあり、安定な使用には注意が必要です。ブレンドして墨色を作る場合もあります。松煙墨に膠を加えて描くときもあります。筆の水分量をコントロールして渇筆とし、ドーサの引いてない紙の上で速写する場合もあります。引かれたドーサの強さによって線が描きにくい場合も出て来ます。ドーサのコントロールも重要な絵の要素なのです。紙、絹の質に合わせ、また描き方に合わせたドーサが重要な要素になるのです。
※学画と質画、粉本主義、臨模伝統教育という言葉を聞く。美術教育で行われるそれにおいて、はたして「日本画」についてはどのような形をとりうるのか?どのように定義するかがそもそも問題ではあるけれど、絵画として考えた時、描く形態についての問題は、ある意味で今日的な絵画全般に及ぶ話としてとらえることが出来ると思われる。この国の過去の価値観の重要な部分、日本絵画において毛筆の使用が技法上の全ての基本にあると仮定したとき、いかに効率的にこの筆と基底材、絵の具の関係を体験するプログラムを作るかを考える事がそれにあたるのではないか。いわば「大人のぬり絵」として下図、下絵、粉本を用意したこのような手法は、今日的な意味を十分持たせることが可能に思う。※日本画について考える参考に<近代日本画への道程「日本画の19世紀」 徳島県立近代美術館1997>展カタログでは、佐藤道信氏による<言語・言説・表現としての「日本画」>と題されたエッセイにより、このサイトで「日本画」について問題としているような要素、言葉の成立、その背景、現在に続く問題などが検証されています。また、同館学芸員の森芳功氏によるエッセイ<近代日本画への道程-その表現の形成>では、この言葉の意味の内容となる、もしくはそうしようとして来た表現の流れ、変化に具体的にふれ、結びの<日本美術の伝統の再編成>の中で、「線を無くしたことによって、どの流派の表現でもない画風がつくられたのである。このとき、伝統的表現は、流派の表現から切り離され、ひとりの画家の個性の表現のためにとりだすことのできる条件がそろったことになる」と書かれています。とすると、それほどまでに色濃く、それぞれの流派を形作るほど重要な要素であった「線」を取り払ってなお残ったものは何だったのかということが注目されます。私の考える事など、絵描きのたあいない考察にしか過ぎませんが、この「線」を生んできた筆の存在が注目されると思うのです。筆(毛筆)を通して知った価値観の存在を思うのです。表現としての具体的姿は消えたかに見えたとしても、筆法、着彩、表現結果の中にながらくその価値観を包含していたと私は思っています。ただし、それさえも危ういのが現在ではあるのですが。混沌とした現在、積極的な意味で「日本画」における伝統について何らかの位置づけを行おうとするとき、この「線」、毛筆の使用についてふたたび考えること、試みることは何らかの意味をもつように思っています。ちなみに、2003年横浜・神奈川県民ホールで行われた「転移する「日本画」-美術館の時代がもたらしたもの」というシンポジウムでは、「日本画」という言葉を大学の学科名や美術館の分野名からなくすべきだという提案や、グローバル化により国民国家の枠組みが無効となったのだから国民国家としての「日本画」も終わるとする「廃止論」「終焉論」が出されました。(書籍として刊行されています)展覧会紹介でも書きましたが、「花鳥画」と呼ぶテーマを生んだこの国の「自然」とのつき合いかた、暮らし方、またそのものを通して描こうとした姿。この「自然」という言葉にも意味の与え方、違いが見えて来ます。ならばそこにもこの「伝統」とはなにかを考える手がかりがありそうに思います。紹介した徳島県近代美術館では、この「自然」を手がかりとして「伝統」について検証する企画展、<自然を見つめる作家たち 現代日本の自然表現と伝統 2002年>を開催し、その後は「和紙」を縦軸に素材をもとに検証しようとする<日本画-和紙の魅力を探る2007年>と題した企画展を開催しています。
※下図・小下図は、下絵・小下絵とそれぞれ呼ぶ場合もあります。
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基本的な日本画の要素とはなにかとあらためて考えた時、「線」の使用、それも毛筆を使って墨で描くこの作業はとても重要なことを教えてくれているように思います。