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4/2//2009  「無い」から始める日本画講座

基礎のはなし

■ 「自由な世の中、絵を描くのに基礎だとか道具の使い方など難しい話はおいておいて、まずは自分の思ったとおり描けばよいのだ」

確かになんでもありの今、もっともな話のように思います。
「日本画とは何か?」なんて考える必要も実はないのかもわかりません。

きっと”好きなように”描けばよいのでしょう。
 

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ところでそれぞれの”好き”は、ずっと変わらないものでしょうか?。

しばらく絵を描くことを続けていると、意識しなくとも向上だとか習熟といったことがなにかしら気になりだします。たとえば、誰かに「誉められたい」「認められたい」というのもそのひとつの現れであるでしょう。個性が他人との比較によって自覚されるように、他人の絵、先人の絵と比較することで「うまい:ヘタ」「好き:嫌い」が次第に具体的に自覚されてくるのです。先にあこがれの存在などがあったとすれば、その違いはより明らかに自覚されるようになるでしょう。より思うように描きたいという「欲」もでてくるかもわかりません。当初単純に”好き”といっていた存在が、続けるうちになんらかの具体性をもった要求となってくるのです。

基礎を学ぶということは、先人の苦労、他人の苦心をわかるようになるということでもあるのです。このことは、人の絵を見ること、鑑賞に具体的な見方を与えてくれることになります。

この講座名に使われている「無い」は、<混沌とした現状の中で「日本画」という言葉が指し示す存在自体を疑ったり、その成立自体を問題にすること>が事実なら、いっそ「”日本画は”無い」ということにしてしまうことにより、まずは言葉の問題自体から離れて絵を描く本質的なところ、なんだかわからないけれど、なにかしら「いいな〜」と思う価値観を、使う材料や道具、技法、鑑賞の中にみつけようという気持ちの現れとして使っているのです。

一人の人生よりもより長い年月を生き抜いて来た価値観の存在。それは材料や道具の制作、維持継承、鑑賞なども含め、個人としてだけではなく、社会の中の役割、存在として続いてきました。基礎とは、先人たちの紡いできた価値観を学ぶということだと思うのです。

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昔々、日本画の基礎として、<運筆・粉本・写生>の三つの柱があったそうです。運筆は筆、もちろん”毛筆”の使い方を学ぶこと。粉本はお手本を真似て勉強すること。写生は現在でもありますね。”毛筆が使える”ことは、とても重要な要素だったのです。

はたして「毛筆が使える」とは、どういうことなのか?

小学校の書道学習で墨をすらなくなって長い時間が過ぎました。一概に墨汁が悪いと言っているのではなく、固形の”墨”の存在が一般の方々から遠くなったことを思うのです。墨、硯の機能を知らない方々が圧倒的に増えたのです。ふと気づけば、社会が””墨”、”毛筆”に求めるものが変わったのかもわかりません。”筆ペン”なるものも作られ、毛筆も一般に使われることは少なくなりました。
墨色や筆と墨、硯、和紙で作られる価値観が社会から次第に失われているのです。絹はより早く失われたように思います。多くは将来書家や絵描きになるのではないから関係ないという意見もあるでしょう。しかし作業の簡易化は、先に書いたように”共有したい価値観”、見方を、”社会”から失う結果をまねいているように思うのです。そのことは社会の中で鑑賞者や理解者を結果的に少なくすることになり、市場も縮小させ・・・・。

昔、パーソナルコンピュータ(パソコン)普及の黎明期、墨と和紙、毛筆の描き具合をシミュレーションするソフトが発売されたことがありました。以前にも紹介したことがありますが、ソフトウエア、アプリケーションは、目的とする作業をプログラマがどう捉えているか、理解しているかの表現にほかなりません。たしかに何らかの制限があり、わかってはいても実現出来ない部分があるかもわかりませんが、プログラムしようとすることは、作業を客観的に理解しようとする試みでもあるのです。
同様に、道具を便利にしようとする動きは、ある意味でそれを作る人がそのものを理解出来ただけにしか実現出来ないことでもあるのです。

言葉で何かしらを伝えようとする行為は、上記したように伝える側が言語化出来たことと、聞く側が知っている言葉の意味によって成り立っています。いいえ、成り立っているように見えているのかもわかりません。
写生以外のもう一つの柱、粉本、”形、手本を真似る”という作業の単純さが持つ伝達方法が何らかの価値観再生に有効ではないかと思う今日この頃なのです。その為にも使用する材料や道具が出来るだけ昔と変わらぬものであって欲しいものなのですが、そういった重要な手がかりさえも継承が難しい時代となってきたように思うのです・・・・・。